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桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役

七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)が即位した時、大和朝廷(大和王権)の完全支配域は日本列島の西半分に過ぎなかった。

桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は、次は東北の蝦夷征伐と、七百八十八年(延暦七年)七月紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍に任命、七百八十九年(延暦八年)兵員、五万三千人 を集めて、東海・東山・板東から奥州に大軍を送り、東北に進行を開始する。

蝦夷が反乱を起こしたからその征伐に出掛けるのではなく、侵攻の最終目標は日高見国征服で、何年間も兵たんの準備をして何万もの軍勢でもっての侵攻作戦を立てている国家意志による侵略戦争である。

まず、このヒタカミ(日高見国)蝦夷の役、官軍と賊軍と表現する歴史学者も居るが、その表現は正しくない。

アテルイ(阿弖流為)は賊軍ではなく、祖国防衛軍である。

独立している祖国を、これから征服しようとする相手に、何で「賊軍」と呼ばれなければ成らないのか?

大和朝廷側の文献を鵜呑みに読む歴史学者の、余りにも大和朝廷寄りに偏った発想である。

ヒタカミ(日高見国)は 、七百二十四年に大和朝廷側の蝦夷開拓使・陸奥鎮守将軍・大野東人(おおののあずまびと)が、多賀柵(宮城県)を築いてからは北の方へ支配地を狭められて、主な支配地域は宮城県北を含む岩手県と秋田県内陸になっていた。

周囲は同じ蝦夷族の居住地だが、既に大和朝廷の支配下に置かれてヒタカミ(日高見国)は孤立していた。

ヒタカミ(日高見国)は度重なる大和朝廷の侵略にも耐えてきたが、 ここに大きく強力な敵、桓武天皇が現れる。

ヒタカミ(日高見国)蝦夷の首領にアテルイ(阿弖流為)と呼ばれる指導者がいた。

この名前、個人名なのか、地位の名称なのかまだ結論が出ていない。

アテルイ(阿弖流為)を人名と決め付けたのが現在の事情で有るが、悪路帝(王)説によると、「悪路」と言うのはアイヌ語の「アコロ」と同じ意味で、「われわれの」と言う意味ではないか、と言う事である。

つまり、平泉周辺の人々は、アテルイの事を「アクロオウ」と呼ぶ事で、ひそかに、昔の自分達の言葉で「我々の王」と呼んでいたのではないかと言う説もある。

弱小の村落を平定するのは容易であるが、いかに朝廷軍と言えども組織的に抵抗されるとそう簡単には決着がつかない。

征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、蝦夷の首領アテルイに大敗を喫する。

征討軍は北上川にそって北上を始めた。

余談だが、この北上川(きたかみがわ)の呼び名、本当はヒタカミカワ(日高見川)である。

対する蝦夷軍の将軍はアテルイ(阿弖流為)、朝廷軍は隊を二つに分けて進軍した。

アテルイ軍はその館から三百人ほどが出て抵抗を試みるが、適わず退却し、紀軍は村々を焼き払って追撃する。

日高見川(北上川)を渡った朝廷の戦闘部隊、四千人ほどの当時としては大軍が水沢の巣伏村に来た頃に、アテルイは急遽反撃に出る。

一部は後方に回ってこの渡河部隊を挟み撃ちにし激戦となるが、ここで朝廷軍は壊滅的な大敗北を喫する。

紀軍(朝廷側)の被害は戦死者二十五人・矢にあたった者二百四十五人・河で溺死した者千三十六人・河を泳ぎ 逃げて来た者千二百十七人と言う敗北で有る。

紀(朝廷)軍はここに来るまでに十四村・住居八百戸 を焼き討ちにして、アテルイ軍の戦死者は八十九人だった。

この住居焼き討ち戦果の記述、紀(朝廷)軍がまったくの侵略軍だった事を物語っている。


大和朝廷(ヤマト王権)の勢力図は、七百十年代頃の多賀城の鎮守府設営(宮城県)から百年かけて北上を続け、今の青森県の手前に到達している。

この百年間は、大和朝廷(ヤマト王権)勢力の奥州(東北地方)侵略の歴史で、エミシ(蝦夷)側にすれば、アテルイ(阿弖流為)やモレィ(母礼)は民族の英雄だった。

千九百九十年以降、漸(ようやく)くアテルイ(阿弖流為)と言う人名が教科書の歴史に記載される。

千九百九十七年度、中学校歴史教科書七社のうち三社がアテルイを取り上げ、二千二年度までに、八社中七社がアテルイ(阿弖流為)を記述するようになった。

二千年度前後で漸(ようやく)く中学校歴史教育に取り上げられたアテルイ(阿弖流為)の存在は、北海道の先住民族・アイヌに比較し東北の先住民族・エミシの復権が遅れた事を物語って居る。


蝦夷征伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての武人公家である。

古佐美(こさみ)の紀氏(きし/きのうじ)は、武内宿禰(たけのうちすくね)系の古代豪族の一つで、宿禰の母・影媛(宇遅比女、武内角宿禰の祖母)が紀伊国造(きいくにのみやっこ)家の出であった事から母方の紀姓を息子に名乗らせたとされる。

紀氏(きし/きのうじ)は、古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが廷臣や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていた。

しかしヒタカミ(日高見国)蝦夷の役で桓武天皇に命じられて征夷将軍として出撃した紀古佐美(きのこさみ)は、アテルイ(阿弖流為)の反撃に合い敗退して九月十九日に帰京したが、敗北の責任を喚問されて征夷将軍の位を剥奪された。

その敗戦後を受けてヒタカミ(日高見国)攻略に成功し、初代・征夷大将軍に出世したのが坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)である。

しかしこんな事(紀古佐美の敗退)で諦める桓武天皇ではなかった。

七百九十一年(延暦十年)蝦夷征伐準備のため、 坂上田村麻呂と百済俊哲を東海道諸国に派遣している。

この記述、「征伐準備の為」となっているが、建前大和朝廷が統治権を確立している事に成っている為で、「実は東海道諸国の平定だった」とも言われている。

七月に大伴弟麻呂を征夷大使に任命し、坂上田村麻呂は四人の征夷副使の一人となる。

この間にも七百九十二年には紫波村の首長の胆沢公・阿奴志己(アヌシユ)が朝廷に恭順を示すなど、蝦夷の方でもまとまり(団結)が欠けて行く。

同じ年(延暦十年)の七月、いよいよ討伐軍十万が派遣され、延暦十三年四月にこの大軍が北進を開始した。

七百九十四年、六月には副将軍・坂上田村麻呂以下蝦夷を征すとの報告をしている。

延暦十三年に首級四百五十七個を挙げると言う大勝利を収める。

十一月二十八日、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が帰京して戦果を奏上した。

この戦で坂上田村麻呂の活躍がめざましく、大いに面目を施した。

紀古佐美(きのこさみ)以後の紀氏(きし/きのうじ)であるが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めて来るに連れて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降の紀氏(きし/きのうじ)は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無く成った。

紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。

氏族・紀氏(きし/きのうじ)の長は紀伊国造(きいくにのみやっこ)を称し、現在に至るまで日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。

紀氏(きし/きのうじ)では、平安期・九百五年(延喜五年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した歌人の紀貫之(きのつらゆき)が有名である。

紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、菅谷氏、信太氏、高安氏、中村氏、品川氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮冒系図の可能性)、などが挙げられる。

国を統治する上で、交通網の整備は欠かせない。

昔の街道は、制定されると土地土地の責任でそれなりに手入れがされ、整備はされていたが今では考えられない程細い「土埃の街道だった。」と思われている。

我輩の理解もそんな処で、そう思うのが自然で在ったが、意外な事に、この街道に対する認識は江戸期以後の認識らしい。

調べてみると、そもそも道の成立ちは二種類ある。

つまり、道が出来て町が出来るのか、町が出来て道ができるのか。

当初開かれた日本の街道は、開拓地に相応しい米国型の道路だった。

七世紀の天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)以降に全国に張り巡らされた古代の幹線道路は、有事の際、軍隊や馬をいち早く移動させる必要から、ほとんどが要所に関所と駅屋(うまや・厩駅舎)を配置した「幅の広い直線道路」だった。

つまり、開拓と地方の治安維持が目的の街道だったのである。

その古代の広く真っ直ぐな街道が、やがて使われなくなる。

分国単位の封建統治がその所領ごとの防衛の必要性を生み出して、広い一本道は敬遠されたのである。

また、生活上の地形に合わせて発生した無秩序な集落を繋ぐ為に、「細く曲がりくねった街道になった」と言われ、十二世紀ごろまでには国策の幹線道路が使われなくなっている。

その幅広い道は今の様に海岸線ではなく、主として山の中腹に切り開かれていた。

現在の様に山腹にトンネルをうがつ近代土木技術と違うから、地形の高低さを克服するには、山の中腹と低い山の峠を繋いで行く峠道が有効だった。

その街道を疾走したのが、坂上田村麻呂と征夷軍だったのである。

十三年の功績により、田村麻呂は順調に階位を上げ、七百八十七年に近衛少将に七百八十八年に越後守に昇進している。

七百九十五年、(延暦十四年)には抵抗した俘囚大伴部・阿テ良(アテラ)等 六十六人を日向国に流配し、吉弥候部真麻呂父子を斬首している。

七百九十六年、(延暦十五年)田村麻呂は陸奥出按察使・陸奥守、に任命され、 翌、延暦十六年にはついに征夷大将軍に任じられる。

八百一年(延暦二十年)二月十四日、坂上田村麻呂は兵員 四万人を動員して、第三次征夷蝦夷攻撃に出発した。 田村麻呂の戦果は目覚しく、秋には従三位を授けられ、九月二十七日には「夷賊討伐せり」と報告として作戦を終了している。

度重なる攻撃で、蝦夷(エミシ)のアテルイと同盟軍モレィ(母礼)も力の衰えが見えていた。

翌八百二年(延暦二一年)には、長い間朝廷の征夷作戦に抵抗して来た蝦夷の首領・アテルイも・モレィ(母礼)等、「種類(配下)五百余 人を率いて降参する」としてアテルイは田村麻呂の軍門に下った。

田村麻呂は、日高見国の中心だった所に胆沢城(岩手県水沢市の近く)を作り、そこに関東から流浪人(囚人)を四千人ほど入れて永久 占領の構えを見せ始める。

朝廷軍は敵の本拠地を占領して城を作り始めた事になる。

祭らわぬ(マツラワヌ)とは「氏上(氏神/鎮守神)を祭らぬ」と言う意味だが、つまりは「氏族に従わない」と言う事で、東北地方の祭らわぬ(マツラワヌ)山の民「またぎ」が、今日ではこの「日高見(北上)国の阿弖流為達の子孫達ではないか?」と言われて居る。

勝利成って、田村麻呂はアテルイとモレィ(母礼)を連れて帰京、凱旋している。

七月二十五日朝廷は大喜びして、「朝廷の役人総動員で蝦夷平定を祝賀する」と言う状態だったのである。

何やら、明治、大正、昭和期の戦勝賛賀、「ちょうちん行列」を思い起こさせるしろものである。

八百二年(延暦二十一年)八月十三日アテルイとモレィ(母礼)は河内国の杜山で斬刑に 処せられた。

その後の田村麻呂は八百十年(弘仁元年・平安時代初期)には大納言に任じられ、藤原薬子の乱では鎮圧軍の指揮も任じられた。

そして八百十一年(弘仁二年)五月二十三日、平安京郊外の粟田別業で田村麻呂は死去する。

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by mmcjiyodan | 2010-07-23 00:41  

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