村上水軍(むらかみすいぐん)(一)
村上水軍の活動が文献に残る最も古い記録は、千三百四十六年(南朝:正平四年、北朝:貞和五年)に能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたと言うものである。
村上水軍(むらかみすいぐん)は、南北朝期には因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。
水軍としての主な活動は、瀬戸内海の制海権を握って航行船の破壊、略奪、信書の開封破棄等を通じた同盟関係の分断で、代表的な表家紋は丸に上や八角形に縮み三文字などである。
村上家の起源ははっきりしないが、「元々は一つの家であった」と言われ、大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれていた。
三家に分かれれる前の村上家の起源として最も有力とされるのが、「尊卑分脈」に記されている河内源氏庶流・信濃村上氏を起源とする説である。
これに拠ると、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の千百六十年(永暦元年)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
元々伊予は信濃村上氏と縁のある土地で、越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの寺社・仏閣を建立させたという伝承が残っている。
一方能島村上氏の系図では自らの出自を村上天皇の皇子・具平親王(ともひらしんのう)の子・源師房(みなもとのもろふさ)を祖とする村上源氏としていて、因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。
これを裏付ける良く似た説が信濃村上氏に残る系図に伝わっており、源頼信の次男頼清が村上天皇の皇子・為平親王(ためひらしんのう)の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとされている。
その他村上水軍については、伊予越智氏の庶流との説もある。
今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住み、戦後暫く瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。
【村上水軍(むらかみすいぐん)(二)】へ続く。
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