高山右近(たかやまうこん)・(二)
千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が本能寺の変を起こし織田信長が没して光秀が畿内を一時制圧する。
明智光秀は高山右近の与力を期待したが、右近は高槻に戻り大返しで中国から戻って来た羽柴秀吉の幕下に駆けつけ、山崎の戦いでは先鋒を務め、中川清秀(なかがわきよひで)、池田恒興等と共に奮戦して明智光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて所領を安堵された。
羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の合戦では、右近は親族の中川清秀(なかがわきよひで)と伴に岩崎山を守るものの、勝家方の武将・佐久間盛政の猛攻に遭って親族の中川清秀は討死、右近は 羽柴秀長の陣まで撤退して討ち死にを逃れている。
その後も右近(うこん)は、羽柴秀吉に臣従して小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦し秀吉の信任を得て千五百八十五年(天正十三年)に播磨国明石郡に新たに領地を六万石与えられ、船上城を居城とする。
所が、天下を取った羽柴秀吉に拠ってバテレン追放令が施行され、黒田孝高が棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となり、右近は信仰を守る事と引き換えに領地と財産の全て捨て世間を驚かせた。
ここから高山右近(たかやまうこん)数奇な運命が始まり、暫くは過って友人小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住むも、千五百八十八年(天正十六年)に成って、加賀国金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで一万五千石の扶持を受ける客将となる。
高山右近は加賀前田家の庇護下に在って建前上は追放処分の身のままでありながら、千五百九十年(天正十八年)前田隊に属して小田原の役にも従軍している。
また、金沢城修築に成果を上げ、利家嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事に相談役を務め、利長の新居城(高岡城)築城の縄張も担当している。
二十六年間、加賀前田家の庇護下で暮らしていた右近だったが、千六百十四年(慶長十九年)キリシタン追放令を受けて前田家に責めが及ぶ事を恐れ加賀を退去する。
右近は、家族とともに追放された内藤如安らと共に長崎からマニラに送られる船に乗り、マニラには十二月に到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告でキリシタン大名として有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督、フアン・デ・シルバ等から大歓迎を受けも船旅の疲れや慣れない気候に病を得て、僅か三ヶ月足らずの翌千六百十五年(慶長二十年)二月には息を引き取っている。
尚、右近の死後に右近の家族は日本に帰国し、現在石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に三家を数える直系子孫・高山家がある。
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