日清戦争(一)対朝鮮・李氏王朝交渉
その戊辰戦争の最中から維新後の最後の内戦・西南戦争を経て近代化を歩み始めた日本にいったい何が在ったのだろうか?
太平洋戦争の終結に到って、国際圧力論やアジア開放論など色々な論陣を張り正当性を主張する意見は在るが、日清戦争から太平洋戦争の敗戦終結に到るこの期間の日本の指導者に、覇権主義の野望が無かった」と言い切れるのだろうか?
人間は、良い事拠りも悪い事を覚える方が遥かに早い。
どうも日本人は過っての大陸伝来文化の経緯以来舶来に弱く、明治維新前後の衝撃的なカルチャーショックからは欧米思想への無条件追随気分が高まっていたから、植民地主義(覇権主義)を良き目標として富国強兵に取り組んだ。
しかし歴史に疎い近頃の経済学者が、またぞろ舶来コンプレックスに嵌って悪い事を覚え、米国の市場経済至上主義に追随する政策をするのには困ったものである。
まぁ、明治政府の建前は近隣国との友好な関係を結ぼうと言う事だが、明治新政府の手口は結果的に米国ペリー艦隊の砲艦外交をソックリ真似た「言い掛かり」から始まっている。
つまり当時の日本には、欧米を手本にした覇権主義の野望が明確に在ったのではないだろうか?
その覇権主義は、既に西南戦争を遡る事九年前・千八百六十八年(明治二年)の朝鮮・李氏王朝との国交々渉を切欠として既に始まってた。
李氏朝鮮(朝鮮王朝・チョソンワンジョ)は通算五百年続き、大陸の歴代覇権帝国に属国扱いされながらも生き延び、その間に太閤・豊臣秀吉が朝鮮半島に送り出した侵略戦争「朝鮮征伐(文禄・慶長の役)」も経験していた。
その朝鮮征伐(文禄・慶長の役)の時も宗主国・明帝国の支援を得て秀吉軍を迎撃した経緯を持っていた。
薩長土肥の倒幕の志士と倒幕派公家を中心とした明治政府は、千八百六十八年(慶応四年/明治元年)から翌千八百六十九年 (明治二年)戊辰戦争の最後の局面として旧幕臣を主力として函館五稜郭に立て篭もった反政府勢力との箱館戦争(はこだてせんそう)に勝利した。
その国内騒然とする千八百六十八年(明治二年)の頃に、明治新政府が王政復古を伝える書契を朝鮮・李氏王朝に渡そうとした事に国交々渉は始まった。
所が、この書契を朝鮮・李氏王朝は文章上の解釈からその受け取りを拒否、その後数年間交渉が進展しない事は国際間に於いて最近隣国が明治新政府を認めない事を意味していた。
当時は日本に於ける王政復古(明治維新)の切欠にも成った西欧列強が東アジアに触手を伸ばして来た時代で、日本側の書契文中に中国皇帝のみが使用する「皇」や「勅」の語があった事で、朝鮮側はそれらの文章形式を日本に拠る対朝鮮圧力と捉えていた。
急速に近代化を進める日本に対する警戒感とも相まって、日本を「仮洋夷(仮の西欧覇権主義)」とする意識が朝鮮・李氏王朝側に在ったのである。
当時の朝鮮・李氏王朝は宗主国に清帝国を仰ぎ、幼い李朝国王・李高宗(イーコジョン/李氏朝第二十六代)が王位に在り、実権は実父・興宣大院君(フンソンデウォングン)が握って外戚・安東金氏(アンドンギムシ)の専横と古い体制を打破しつつある情況に在った。
王政復古(明治維新)の二年前、千八百六十六年に李氏朝鮮では、米国武装商船ジェネラル・シャーマン号事件とフランス人宣教師九名の処刑事件(丙寅教獄)を起こし、報復として江華島へ侵攻した仏国艦隊との戦闘(丙寅洋擾)も在った。
朝鮮・李氏王朝は、西欧列強の外圧に対し宗主国・清帝国の影響下で、華夷思想による強固な鎖国・攘夷政策を実行し西欧諸国との間に重大な軋轢を引き起こしていたのだ。
そこにまったく対欧米諸国に対する対応が違い、開国近代化を推し進める日本の新政府から宗主国並の文面の書契を届けられたのだから、応ずべきもなかったのだ。
【日清戦争(二)対清帝国交渉】に続く。
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