日清戦争(五)江華島事件と日朝修好条規
千八百七十三年の末になると朝鮮・李氏王朝の興宣大院君(フンソンデウォングン)は失脚し、王妃の一族・閔(ミン)氏が政権を握り、朝鮮国内でも通商開化を説く意見が登場し始める。
明治政府は千八百七十四年(明治七年)の年中から交渉を再開するがやはり紛糾した為、軍艦数隻を朝鮮国沿岸に派遣し海路を測量させて示威を行い交渉を有利に進める事とし、千八百七十五年(明治八年)軍艦・雲揚、第二丁卯の二艦を派遣した。
この軍艦・雲揚が同千八百七十五年九月、朝鮮国首都・漢城に近い要塞地帯であった江華島に接近し、発砲されたとの理由で三日間にわたり戦闘し永宗島の砲台を攻撃・占領する事件が起きた。
明治政府は同年の末に黒田清隆を特命全権大使に任命し軍艦三隻などの艦隊をともなって朝鮮国に派遣して砲艦外交に入り、その結果翌年の千八百七十六年春朝修好条規が調印された。
これは首都への公使駐在と釜山の他二港の開港と日本人の居留通商などを認めさせたが、第一条で「朝鮮は自主の邦にして、日本国と平等の権利を保有せり」としながらも第十条で片務的領事裁判権を規定する不平等条約で在った。
さらに第七条では、日本が朝鮮国沿岸の測量権を得て軍艦の周航など軍事的進出を容易にする事となっていた。
なお「自主の邦」と規定したとは言え、清帝国は冊封関係に於いて従来から「属国自主」として内政・外交については関与しない立場を採っており、解釈上清帝国の宗主権を否定し尽くすものでもなかった。
ちなみに千八百八十二年の朝清商民水陸貿易章程では清帝国の宗主権が明文化されている。
江華島事件後の朝鮮国では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。
それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清帝国との対立も表面化して来る。
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