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西郷隆盛・鹿児島私学校

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千八百七十四年(明治七年)二月、閣議で台湾征討が決定した。

この征討には参議・木戸孝允が反対して参議を辞めたが、西郷隆盛も反対していた。

しかし、隆盛三弟・台湾征討軍の都督・西郷従道の要請を入れ、止む無く鹿児島から徴募して、兵約八百名を長崎に送った。

征韓論と「明治六年の政変」で下野した西郷隆盛は、故郷鹿児島で大半を武村の自宅で過ごし、猟に行き、山川の鰻温泉で休養していたこの明治七年三月、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し一泊、翌日指宿まで見送ったが、その後江藤は土佐で捕まっている。

西郷の下野に同調した軍人・警吏が相次いで帰県した明治六年末以来、鹿児島県下は無職の血気盛んな壮年者が多数のさばり、それに影響された若者が溢れる状態になった。

これを指導し、統御しなければ、壮年・若者の方向を誤るとの考えから、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、同千八百七十四年(明治七年)の中頃に旧厩跡に私学校がつくられた。

私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、村田が監督を兼任した幼年学校(章典学校)があり、県下の各郷ごとに分校が設けられた。

翌千八百七十五年(明治八年)、この他に西郷と県令・大山綱良との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)も創るられた。

西郷の影響下にある私学校が整備されて、私学校党が県下最大の勢力となると、大山県令もこの力を借りる事なしには県政が潤滑に運営できなくなる。

大山県令は私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、千八百七十五年(明治八年)度や翌年度には西郷に依頼して区長や副区長を推薦して貰った。

このようにして別府・辺見・河野・小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになると、政府は以前にもまして、鹿児島県は西郷の私学校党の支配下に於いて「半ば独立状態にある」と見為すようになった。

しかも千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族最後の特権をも奪われた事に憤慨した熊本県士族神風連の乱、福岡県士族の秋月の乱萩の乱と続き、世相は西南戦争前夜の様相を呈していたのだ。

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by mmcjiyodan | 2010-08-11 00:19  

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