日清戦争(八)天津条約と甲午農民戦争
千八百八十五年、全権大使・伊藤博文と清帝国全権・李鴻章(リホンチャン)により天津条約が結ばれ、四ヶ月以内の日清両軍の朝鮮からの撤退と、以後出兵時の事前通告及び事態の沈静化後すみやかに撤収すべき事が定められ、その後十年間は外国軍隊の朝鮮国駐留はなくなった。
こうした日清の軋轢の中、千八百八十六年に清帝国の北洋艦隊の内・定遠など四隻の軍艦が長崎港に入港した際、上陸した水兵が日本の警官隊と衝突し双方に死傷者を出す長崎事件が起きている。
何度か起こった朝鮮国内の事変後、明治政府は軍備拡大を進めていて千八百八十二年、山縣有朋は煙草税増税分による軍備拡張を、岩倉具視は清帝国を仮想的国とする海軍軍拡と増税を建議し、陸軍は三年後からの兵力倍増を、海軍は翌年からの八ヵ年で四十八隻の建艦計画を立てた。
そうした軍備拡大の為、歳出に占める軍事費の割合は千八百八十二年度には17.4%だったが、八年後の千八百九十年年度には30%を超えるまでに増大する。
この軍備拡大の間、千八百八十三年に政府は徴兵令を改正し免役規定中の代人料を廃止して兵員増を図り、千八百八十八年には従来の内乱鎮圧型の鎮台を改編し六師団と近衛師団を創設して海外での戦闘能力を高め、千八百八十九年には徴兵令の免除規定を全廃している。
壬午事変(じんごじへん)と甲申政変(こうしんせいへん)の事変後、朝鮮国に於いて日本は経済的に進出し、千八百九十年代の朝鮮国貿易に於いて日本は輸出の90%以上、輸入の50%を占め、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させる。
当時の朝鮮国はただでさえ宮廷上層部の権力闘争に明け暮れ、維新後の日本の様に殖産に力を入れるでもなく財政が逼迫していたから地方官の搾取、賠償金支払いの圧力に対して農民が立ち上がった。
千八百九十四年六月、朝鮮国に於いて東学教団構成員の全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者として暴政を行う役人に対する憤りから民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱である甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう/東学党の乱)が起き、全羅道首都・全州を占領する。
この甲午農民戦争(東学党の乱)の内乱により李氏朝鮮政府は清帝国の派兵を要請する一方、農民軍への宣撫にあたり、農民軍の弊政改革案を受け入れて全州和約を結び、清帝国および日本の武力介入を避けるべく農民軍は撤退した。
清帝国は日本に派兵を通告して九百名の軍隊が朝鮮国・牙山に上陸、折りしも日本の伊藤博文内閣は議会との激しい対立(内閣弾劾上奏案可決)しており、政治的に行き詰まった伊藤内閣は対外的に強硬に出て事態打開を図ろうとした。
甲午農民戦争(東学党の乱)を内政混乱打破の好機と捉えた閣議は、衆議院解散と公使館、居留民保護の名目で朝鮮への混成一個旅団八千名の派兵を決定し史上初の大本営を設置した。
海軍陸戦隊四百名と大鳥圭介公使が漢城に入り、後続部隊を合わせて四千名の混成旅団が首都周辺に駐留する事となったが、既に農民軍は撤収しており天津条約上でも日本軍の派兵理由は無くなった。
清帝国も軍を増派したが首都に入る事は控えて、上陸地点の牙山を動かなかった。
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