湯女(ゆな)
また文献を紐解くと、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の生母・於由利の方は紀州藩第二代藩主・徳川光貞を湯殿で世話をしてお手が付き、源六(吉宗幼名)を懐妊したとされる。
大名家や大身旗本などでは奥女中が湯殿で世話をするのは一般的だったから、そうした情報も庶民に伝わって湯女(ゆな)誕生に影響したのかも知れない。
湯女(ゆな)と言う名称が一般化したのは、江戸時代初期の都市部に於いてであり、当初は銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性とされ、垢すりや髪すきだけだったが、次第に飲食や音曲に加え性的なサービスを提供するようになって諸国で湯女が流行(はや)った。
つまり現代のソープラントに於けるソープ嬢の走りが、江戸前期の「湯女(ゆな)」と言う事になる。
性的なサービスを提供するようになった為に幕府はしばしば湯女禁止令を発令し、江戸では千六百五十七年(明暦三年)以降は吉原遊郭のみに限定された。
禁止後は、三助と呼ばれる男性が垢すりや髪すきのサービスを行うようになり、湯女(ゆな)は「あかかき女」、「風呂屋者(ふろやもの)」などの別称で幕府の禁止令を逃れようとした歴史が在って現代に至る。
遊女関連の詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】に飛ぶ。
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皇統と鵺の影人
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