家制度恥文化の規制的な行動制約
「社会規範の乱れ」とは言うものの、その根底に在るのは家制度恥文化の崩壊である。
そもそも日本の社会では、家制度を基本とする恥文化として家単位としての「世間様に恥ずかしく無い様に」が、日本人の一つの規制的な行動制約に成っていた。
つまり親兄弟にまで恥が及ぶ家制度が、一種の犯罪抑止力と成っていた。
その家単位としての考え方が、村や地域の社会単位が希薄になった事で「隣は何をする人ぞ?」と成って人間関係を築け無く成って社会的孤立が進み、生活の基準が個人の単位に代わって家単位としての行動制約は無くなって行った。
為に家単位としての行動制約は無くなって、現代日本社会は「自分さえ良ければの価値観」の中で身勝手な行動をする日本人が増える悪い状態にある。
そこで問題なのが日本人の単純化したがる悪い癖で、こうした不都合を総体的環境とは考えようとはせず、個別の事として取り上げ考える事である。
我輩は、日本人が過って持っていた家制度恥文化の規制的な行動制約の原点を「群れ社会」と見ている。
つまり象のシッポ部分だけ取り上げて、「家制度が壊れて行動制約を失った」と言うのは良い。
だが、その家制度が自然発生的に村や地域の中で成立していたにはそれなりの魅力的な群れ社会構造である「村落社会(共生社会)」が在った事をロスト(欠落)してしまう訳である。
もし、総体的環境と捉えないで「家制度と世間と言う行動制約の崩壊」を問題視するとその解決策は綺麗事の精神論を持ち出すしか無いが、そんな具体性が無い事を社会の柱にしても現代人が傾倒するだろうか?
一応その綺麗事の精神論で建前は建てられるかも知れないがあくまでも建前で、本音が無いから誰も具体的な方向性を得られる訳では無い。
いずれにしても日本人は、「総体的環境」と言う条件の中で矛盾が生じると、不都合な具体的な事には目を瞑り解決の逃げ口に必ず「精神論」を持ち出して、結果、成果の得られない不毛な主張を延々とする人種である。
戦後の私権教育に拠って、食べ物を分かち与える村落共生主義など、戦後第二世代以降には理解出来なく成ってしまった。
益してやその原点が、「夜這いに在る」などと言ったら、「嘘、信じられない。」と言われるだろう。
しかし近隣愛の原点が無く成れば、「誰でも良いから殺したい」と言う身勝手な発想が生まれる事に成る。
日本人は形(建前)を作る事から物事に入る。
近頃話題と成っている「選択的夫婦別姓」の問題も、形(建前)から思考に入るから「夫婦別姓は家族と言う単位を破壊する」などと事実と掛け離れた主張をする。
もし、現代日本で家族と言う単位が破壊されるとしたら、そんな形(建前)の問題では無く、別な深刻なものが家族内に在る事は言うまでもない。
どうもこうした主張にはアンカリング効果が影響しているのだが、夫婦同姓は「昔から日本では当たり前だった」と言う主張は歴史を知らない故の間違いである。
日本の夫婦別姓は明治以後に始まった事であり、お隣の中国も韓国も皆夫婦別姓であるが家族と言う単位を破壊されるなどと言う事はない。
そして「選択的夫婦別姓」まで入れてしまうと、現在では世界中の大勢が容認されていて日本の様な夫婦同姓の国は極めて少数である事を知らねば成らない。
詳しくは【日本人・その気質のルーツ】を参照して下さい。
関連参考文献
【金と日本人】に飛ぶ。
【良い加減・放棄と融合】に飛ぶ。
【頑張る(がんばる)】に飛ぶ。
【物造り大国・日本】に飛ぶ。
【物造り大国・日本の矛盾】に飛ぶ。
【島国日本人気質・謙譲の美徳(けんじょうのびとく)】に飛ぶ。
【第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-09-16 21:39