遣隋使(けんずいし)と小野妹子(おののいもこ)
つまり朝貢使を派遣したとされる六百年(推古八年)から六百十八年に掛けて五回の派遣については、遣隋使(けんずいし)と言う呼称を大和朝廷(ヤマト王権)が使用して居た訳ではない。
そしてこの遣隋使(けんずいし)と言う史学上の朝貢使について、まだ解明されていない部分が多く、果たしてどれほどの精度がある事か怪しいのである。
まず、第一回目の朝貢使とされる派遣については大和朝廷(ヤマト王権)側の日本書紀などにその記述は見られず、「隋書・東夷傳俀國傳」に在る俀國(倭国?)の朝貢使を「第一回ではないか?」としている。
そこで問題が幾つかある。
まず「隋書・東夷傳俀國傳」に記載された「倭国の朝貢使」であるが、当時の大陸・隋帝国に於ける倭国の認識は、辺境の蛮国を指し必ずしも大和朝廷(ヤマト王権)を指すとは限らないからである。
大和朝廷(ヤマト王権)側に記録が無いにも拘らず、この「隋書・東夷傳俀國傳」の記載を持って第一回の遣隋使(けんずいし)としてしまうには、かなり後に成って確定した倭国=日本の定説を遡って適用してしまうからではないだろうか?
そしてもう一つ、日本史に於いて第一回目の朝貢使は推古大王(すいこおおきみ)の摂政・聖徳太子(厩戸皇子)が発案、派遣を命じたとされるが、その聖徳太子その者の存在も疑われていて遣隋使(けんずいし)の存在と整合性が採れていないのである。
第二回とされる六百七年(推古十五年)の朝貢使については「日本書紀」に記載があり、小野妹子(おののいもこ)が大唐国に「国書を持って派遣された」と記されているので実在と考えられる。
しかし大陸・隋帝国に朝貢使を送るも「大唐国に国書を持って派遣された」と記載あるを、かなり後(七百年代)に編纂された「日本書紀」の誤りなのか、大唐國は加羅國の宗主国の意味だったのかは定かではない。
小野妹子(おののいもこ)は、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で春日氏の一族・小野氏の出身とされる朝臣で小野臣、大徳冠の冠位を賜ったとされている。
但し、「隋書・東夷傳俀國傳」には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ「倭国の使者」とあるのみで、小野妹子の存在は虚構が多いとされる「日本書紀」に見えるだけである。
「隋書・東夷傳俀國傳」に拠ると、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出されていた書を見た煬帝は、書に天子在るに「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)」と立腹したと書き記されている。
此処で注目して欲しいのは「倭国の使者」はあくまでも「隋書」の記述で在って、大和朝廷(ヤマト王権)側は「日出ずる処の天子」を名乗り、倭王ではない。
「隋書」では大和の国に当たる国名は記されて居らず、「都於邪靡堆(都はやまたいにある)」と記されて在る事から「東夷傳俀國」が大和朝廷(ヤマト王権)を指すと解釈されている。
小野妹子はその後返書を持たされて返されるが、帰途に於いて返書を百済に盗まれて無くしてしまったとし、煬帝の返書は大和朝廷(ヤマト王権)が受け取っていない事になっている。
煬帝の返書の内容がとても大和朝廷(ヤマト王権)に容認できない為に、受け取らなかった事にしたのではないかと言う推測が定説である。
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