玄昉僧正(げんぼうそうじょう)
法相宗の僧・義淵に師事し、七百十七年(養老元年)に多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐大使とする第九次遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、玄昉(げんぼう)の在唐は十八年に及び、その間に当時の唐皇帝で在った玄宗に才能を認められ三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けている。
約二十年後の、次に唐に遣って来た七三五年(天平七年)の遣唐使に玄昉(げんぼう)は随い、経論五千巻の一切経を携えて吉備真備(きびのまきび)等と伴に帰国する。
帰朝した七三六年(天平八年)、玄昉(げんぼう)は封戸(住まい)を与えられ、翌七三七年(天平九年)僧正に任じられて内裏に於いて仏像を安置し仏教行事を行う「内道場(建物)」に入る。
内道場に入った玄昉僧正は、そこで聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の母・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を祈祷により回復させ賜物を受けて出世の糸口を掴んだ。
病気回復の成功に拠り、母思いの聖武大王(しょうむおおきみ/第四十五代天皇)の玄昉僧正への信頼も篤く、玄昉は吉備真備とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の担い手として出世したが、出世欲の野心が強過ぎて人格に対して人々の批判も強かった。
七百四十年(天平十二年)には、旧勢力の藤原広嗣が新たな実力者である吉備真備と玄昉僧正に不満を持ち二人を排除しようと九州で「藤原広嗣の乱」と呼ばれる兵を起こした。
藤原広嗣の乱は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧されたが、吉備真備と玄昉僧正も朝廷での力を失いつつ在って玄昉(げんぼう)は翌七百四十一年(天平十三年)に千手経千巻を書写供養し失地回復を図る。
しかし藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が勢力を持つようになると、玄昉僧正は七百四十五年(天平十七年)筑紫国・観世音寺別当に左遷、封物も没収されて翌年任地で没した。
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