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藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代(ならじだい)の廷臣で右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子達・藤原四家(ふじわらしけ)藤原四兄弟の三男、藤原式家・藤原宇合(ふじわらのうまかい)と石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女との長男である。

七百三十七年(天平九年)疫病(天然痘)の流行によって父の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を含む藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡する。

朝廷に於いて圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなったこの年、広嗣(ひろつぐ)は従六位上から従五位下に昇叙し式部少輔に任官、翌年の四月には大養徳(大和)守を兼任する。

しかし時の権力者に橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭し、広嗣(ひろつぐ)の昇進は順当とは行かず遣唐使帰りの吉備真備(きびのまきび)僧・玄昉(げんびぼう)が重用をされる。

朝廷内にこうした反藤原氏勢力が台頭した背景の下、広嗣(ひろつぐ)は親族への誹謗を理由に大宰少弐(大宰府の次官)として九州に左遷される。

広嗣(ひろつぐ)は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である吉備真備と僧の玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)はこれを謀反と受け取った。

真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄(もろえ)であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄(もろえ)その人への批判と捉えられる事は明白で在った。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は、この広嗣(ひろつぐ)の所業に対して広嗣の都召喚の勅(ちょく/命令)を出す。

広嗣は聖武帝の勅(ちょく)に従わず、七百四十年(天平十二年)、弟の藤原綱手(秦綱手/はだのつなて)とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた一万余を率いて世に「藤原広嗣の乱」と伝えられる反乱を起こした。

しかし広嗣(ひろつぐ)は、武官(武人)として実績を挙げていた大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ同国唐津にて処刑された。

大野東人(おおののあずまびと)は、当時の武官(武人)で、養老七百二十年(養老四年)に発生した東北蝦夷の反乱に征夷将軍として出兵、奥州(東北)統治の拠点として多賀柵(多賀城)を築き、七百二十年(天平元年)には陸奥鎮守将軍に任じられている。

この「藤原広嗣の乱」に拠って多くの藤原式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの後世に於ける藤原式家の不振を招く要因の一つになった。

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by mmcjiyodan | 2010-09-27 01:03  

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