乃木希典(のぎまれすけ)その(三)
千八百九十六年(明治二十九年)、乃木希典(のぎまれすけ)は台湾総督(第三代)に就任する。
初代台湾総督は樺山資紀(かばやますけのり/薩摩藩士)、第二代台湾総督は桂太郎(かつらたろう/長州藩士)、希典(まれすけ)の後は児玉源太郎(こだまげんたろう/長州藩支藩徳山藩士)とそうそうたる顔ぶれである。
台湾総督時代の希典(まれすけ)は抵抗運動鎮圧に苦労し、母・壽子も台湾に来るが総督官舎で病から自刃して亡くなるなど心労も重なり、実直で清廉な希典(まれすけ)は自ら総督としての職務失敗を理由に赴任一年四ヶ月後の千八百九十八年(明治三十一年)辞職する。
元々乃木家は侍医の家とされ、父の乃木希次(のぎまれつぐ)は諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤め「故実家(実用史家)」として知られる存在で、言わば学者肌の家だった。
その上希典(まれすけ)は愚直に純粋清廉な人柄だった事から、左脳域の利の計算や謀(はかりごと)などまったく無縁な人物故に明治帝に愛され国民に愛されて乃木神社に祀られた。
希典(まれすけ)には名将愚将の両評価があるが、愚直に純粋清廉な人柄だった希典(まれすけ)に戦術など求める方がおかしい話で、明らかに前進あるのみの愚将だったが、その愚直に純粋成るが故に最も神に近かったのかも知れない。
希典(まれすけ)には、後任の児玉源太郎や明石元二郎(あかしもとじろう/黒田藩士)のような積極的な内政整備は出来なかったと評されるが、児玉源太郎や明石元二郎は作戦謀議や諜報工作活動などに超一流の評価がある人物で、実直で清廉な希典(まれすけ)には台湾統治は無理だった。
台湾から帰任後の千八百九十九年(明治三十二年)、希典(まれすけ)は第十一師団(四国四県が徴兵区)の初代師団長(中将)に親補せられる。
その後希典(まれすけ)は願い出て休職していたが、千九百四年(明治三十七年)日露戦争の開戦にともない、第三軍司令官(大将)として戦役に着く。
第三軍は旅順要塞攻略の為に新たに編成されたもので、第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ希典(まれすけ)は多くの犠牲者を出した。
乃木家の男児は二人居たが、長男・勝典(かつすけ/戦死特進中尉)は先に行われた南山の戦いで戦死、次男・保典(やすすけ/戦死特進中尉)は希典(まれすけ)指揮の二百三高地に於ける白昼突撃の戦闘で戦死している。
第三軍の司令官・希典(まれすけ)は、この失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させたとされるが、特に台湾総督時代や旅順攻略戦に対する希典(まれすけ)の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれている。
ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(またはステッセル)との間で水師営の会見(旅順開城交渉)が行われた。
希典(まれすけ)は水師営の会見で紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にも関わらず会見写真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。
水師営の会見(旅順開城交渉)で敵将・アナトーリイ・ステッセリに対する希典(まれすけ)の態度は、軍人の見本とすべき崇高な態度として評価され、乃木希典(のぎまれすけ)神格化の第一歩となった。
戦時中は一般国民にまで兵を消耗する戦下手と罵られた希典(まれすけ)で在ったが、勝てば評価は変わるもので、旅順攻略戦が極めて困難であった事や二人の子息を戦死で亡くした事から希典(まれすけ)の凱旋には多くの国民が押し寄せた。
乃木希典(のぎまれすけ)は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過ごした。
この事からしても、希典(まれすけ)には「政治的素養は無かった」と考えられるべきである。
千九百七年(明治四十年)、希典(まれすけ)は学習院院長として皇族子弟の教育に従事、後に昭和天皇として即位する迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王も厳しく躾(しつ)けられたと伝えられている。
希典(まれすけ)は、千九百十二年(大正元年)九月十三日、明治天皇大葬の夕に、妻・静子とともに自刃して亡くなった。
まず静子が希典(まれすけ)の介添えで胸を突き、続いて希典(まれすけ)が割腹し、再び衣服を整えた上で、自ら頸動脈と気管を切断して絶命した。
明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。
遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われた事を償う為の死である旨が記されていた。
しかし、明治帝に私心無く仕え、皇臣として揺ぎ無い乃木希典(のぎまれすけ)の生き方は、皇民教育にはうってつけの存在だった。
愚直に純粋清廉な人柄だった希典(まれすけ)には、世間の余りにも高い自らへの名声に違和感を抱いて、「そんな立派な男では無い」と辛く生きていたのかも知れない。
とかく歴史に名を残す人間は、「戦に強かった」とか「権力闘争に強かった」と言う他人を踏み付けにして名声を得るもので、今日現代でも、権力者のほとんどがその類である。
乃木希典(のぎまれすけ)大将の場合は「戦に強かった」とか「権力闘争に強かった」と言う英雄の定番では無く、数少ない人格的評価が為された「特殊な例」と評すべきかも知れない。
乃木希典(のぎまれすけ)は頑固な直者(じきもの)で、つまり正直者(しょうじきもの)・剛直者(ごうちょくもの)で判り易かったから、周囲の人気が高かった。
このタイプは、戦国期の織田家猛将・柴田勝家(しばたかついえ)が同タイプで正攻法一本槍で奇策など用いないが、周囲の人気は勝家(かついえ)も高かった。
だが、戦の結果は二人とも凡将だった。
それで希典(まれすけ)は、日本将兵約六万人を失う突撃を繰り返している。
秀才ではあるが根が善良な関ヵ原合戦敗軍の将・石田三成の様に「正論の徒」の意見が、通らないのがドロドロとした世間の本質かも知れない。
引き換えて、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康などは奇策を用いて勝つ方だったから、直者(じきもの)にあらず曲者(くせもの)だった事に成る。
同様に、希典(まれすけ)と同時期の軍人・児玉源太郎(こだまげんたろう)は曲者(くせもの)だったから二百三高地の陥落に手を貸す事ができたのだ。
いずれにしても出世に対して、いや、生きる事にさえ希典(まれすけ)は不器用だった。
それでも、そんな希典(まれすけ)が順調に出世を重ねたのは、長州出身ながらもその特異な生き方故に出世主義者からもライバル視される事無く愛されたからである。
つまり希典(まれすけ)は、薩長出身者の出世競争に於いて誰からも異論が出ないバランサー(均衡取り)であり、調和を図る人事に於いて安全パイだった。
厄介な事に、神格化された乃木希典(のぎまれすけ)には「現実の歴史」と「文化としての歴史」の二つが混在している。
そして希典(まれすけ)に関わる「文化としての歴史」には、観念を基とする幻想があたかも現実の歴史として思わせる形で後世に伝えられている。
この混在する「現実の歴史」と「文化としての歴史」の正体は判っていて、人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしているからである。
戦にカラッキシ弱い軍神など冗談か皮肉みたいなものだが、この「現実の歴史」と「文化としての歴史」の双方が人間の思考である点では、乃木希典(のぎまれすけ)に対しての評価のどちらが正しいかは個人に任せるしか無いだろう。
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