東郷平八郎(とうごうへいはちろう)その(三)
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は、日清戦争後一時病床に伏すも、明治三十二年に佐世保鎮守府司令長官となり、千九百一年(明治三十四年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。
これは後の対米戦備での位置付けから閑職だったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。
但し、平八郎(へいはちろう)自身は中央への異動を希望していたようである。
しかしながら日露開戦前の緊迫時期に平八郎(へいはちろう)は海軍首脳の山本権兵衛海軍大臣に呼び戻され、千九百三年(明治三十六年)十二月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。
本来なら常備艦隊司令長官である日高壮之丞(ひだかそうのじょう)がそのまま就任するのが筋であるが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な平八郎(へいはちろう)を据えたとも言われる。
しかし実際には、日高常備艦隊司令長官は健康問題を抱えて指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な平八郎(へいはちろう)が至極順当に選ばれたと言うのが真相らしい。
またこの時、明治天皇に平八郎(へいはちろう)の任用理由を聞かれた山本は「東郷は運の良い男ですから」と奏したと言われている。
千九百四年(明治三十七年)から始まった日露戦争では、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は連合艦隊旗艦・三笠の艦橋で指揮を取り、推薦した山本権兵衛の期待に沿う働きをする。
作戦参謀として着任した秋山真之(あきやまさねゆき)中佐の進言を採り上げ、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。
ロシア東洋艦隊相手に圧倒的戦績をあげた平八郎(へいはちろう)は海軍大将に昇進、千九百五年(明治三十八年)五月二十七日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。
この一大海戦は大日本帝国の命運を掛けたもので、平八郎(へいはちろう)はこの日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
また平八郎(へいはちろう)は、指揮下の艦隊に対しては「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
日本海海戦に於いて平八郎(へいはちろう)は、丁字戦法・・その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に大勝利を納めた。
三日間に渡った東郷平八郎率いる日本の連合艦隊とロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊との日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。
当時世界屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破ったこの海戦の勝利は世界各国を驚愕させ、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は名海軍提督として伝説となった。
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