西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち )その(一)
父は薩摩藩御勘定方小頭(禄四十七石余)・西郷吉兵衛(注・隆盛)、母は政子、兄は維新の英雄・西郷隆盛(隆永)、従兄弟には大山巌(おおやまいわお/弥助)などが居る。
西郷氏は藤原氏北家流の肥後(熊本県)菊池氏の分家、増水西郷氏の末裔を名乗っている。
従道(じゅうどう)の名は維新後太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとした所、訛(なま)っていた為に役人に「ジュウドウ」と聞き取られ「従道」となってしまったのだが本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通したと伝えられている。
どうやら名に拘らない家系だったのか、ちなみに兄・西郷隆盛も本名は「隆永」で、「隆盛」とは彼らの父(吉兵衛)の名前であり、同志の吉井友実が西郷隆永が公務で出かけている間に「親の名前を勘違いして登録してしまった」と言う次第である。
西郷兄弟の隆盛、従道と言うのは諱(いみな)であり、日常使用するのは通称(隆盛は吉之助、従道は信吾)であった。
従道(じゅうどう)は薬丸兼義に薬丸自顕流剣術を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ後、有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。
千八百六十一年(文久元年)九月末頃、従道(じゅうどう)は還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名、島津斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。
従道(じゅうどう)は翌千八百六十二年(文久二年)、勤王倒幕の為京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に従兄弟の大山巌(おおやまいわお)と伴に参加するも寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道(じゅうどう)は年少の為帰藩謹慎処分となる。
千八百六十三年(文久三年)、薩英戦争が起こると従道(じゅうどう)や大山巌(おおやまいわお)達寺田屋事件の謹慎組みも謹慎が解け、従道(じゅうどう)は西瓜売りを装った決死隊に志願している。
大政奉還と王政復古に始まった戊辰戦争では、従道(じゅうどう)は鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも各地を転戦し、官軍(新政府軍)の指揮官として活躍した。
千八百六十九年(明治二年)から翌千八百七十年(明治三年)に掛けて山縣有朋と共に渡欧して軍制を調査し、横浜に帰着一ヵ月後には兵部権大丞に任じられ、翌年のちょうど帰着一年後には陸軍少将となる。
【西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち)その(二)】に続く。
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