西郷従道(さいごうじゅうどう/つぐみち)その(二)
従道(じゅうどう)の軍人人生は順調にキャリアのステップアップを続けていたが、千八百七十三年(明治六年)に兄の隆盛が征韓論をめぐり下野してしまい、薩摩藩出身者の多くが兄の隆盛に従うが、何故か従道は政府に留まっている。
千八百七十四年(明治七年)、西郷従道(さいごうじゅうどう)は陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮している。
兵力は二個大隊(三千名)であり、内鎮台兵(正規兵)は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたもので、言わば失業士族の雇用対策の面も在ったと言われている。
この台湾出兵、台湾南部の事件発生地域を占領するも清帝国が賠償金を支払う事で政治決着し、従道(じゅうどう)が指揮する植民兵は撤兵した。
兄・隆盛が千八百七十七年(明治十年)に西南戦争で反乱を起こした際、従道は兄・隆盛に加担せず、陸軍卿代行に就任し政府の留守を守った。
西南戦争終結以後は、従道(じゅうどう)は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨する。
西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、千八百七十七年(明治十一年)の大久保利通暗殺直後には参議となり、同年末には陸軍卿になった。
千八百八十二年(明治十五年)の年頭、黒田清隆が開拓長官を辞すると参議・農商務卿兼務のまま開拓長官に任じられ開拓使が廃止されるまで、一ヵ月にも満たない短期間ながら開拓使長官を務めた。
その後の従道(じゅうどう)は伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任、千八百九十二年(明治二十五年)には元老として枢密顧問官に任じられる。
千八百九十四年(明治二十七年)海軍大将、千八百九十八年(明治三十一年)海軍軍人として初めて元帥の称号を受け日本史に名を残して居る。
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