大山巌(おおやまいわお/弥助)
父・大山綱昌は薩摩藩士・西郷隆充の次男、薩摩藩士・大山綱毅の養子にして砲術専門家で、下級城下士で家格は御小姓与の家である。
薩摩藩から維新の英雄となった西郷隆盛・西郷従道の兄弟は、巌(いわお)とは従兄弟にあたる。
青年期、藩の過激尊攘派・有馬新七等に影響されて彼等の同志に従兄弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)と伴に属したが、千八百六十二年(文久二年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、巌(いわお)は帰国謹慎処分となる。
その後起こった薩英戦争では、巌(いわお)は西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾にて砲術を学び、結果戊辰戦争では新式銃隊を率いて鳥羽伏見や会津・落城戦などの各地を転戦して戦果をあげる。
大山巌(おおやまいわお)は十二ドイム(オランダ固有の長さの単位)臼砲や四斤山砲の改良も行い、これら巌(いわお)の設計した砲は通称の弥助から「弥助砲」と称された。
維新後の千八百六十九年(明治二年)に巌(いわお)は渡欧して普仏戦争などを視察し、翌千八百七十年(明治三年)から千八百七十三年(明治六年)の間はジュネーヴに留学した。
新政府の陸軍では巌(いわお)は順調に栄達し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。
日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に、日露戦争に於いては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任し、ともに日本の勝利に大きく貢献して同郷・同藩(薩摩藩)出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
この日露戦争時の第三軍司令官が、乃木希典(のぎまれすけ)大将だった。
巌(いわお)は、戦争ばかりではなく政争にも強く、明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期に渡って勤め、また参謀総長や内務大臣なども歴任する。
元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられる事を終始避け続けた。
千九百十六年(大正五年)、巌(いわお)は内大臣として大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発して療養中の十二月投下日に大臣在任のまま七十五歳で死去した。
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