山縣有朋(やまがたありとも)その(一)
実は有朋(ありとも)を称したのは明治維新後で、幼名は辰之助、通称は小助のち小輔、さらに山縣狂介と改名している。
家格の蔵元仲間(くらもとちゅうげん)とは、足軽以下の非武士身分の中間や小者を指す武家奉公人(ぶけほうこうにん)の事で、一部には山縣家の家格は無給通(むきゅうどおり)とする記述もあるが事実ではない。
萩毛利家の家臣は、一門を筆頭に永代家老・寄組・手廻組・物頭組・大組・船手組・遠近付(えんきんづき)・無給通(むきゅうどおり)・徒士(かち)、三十人通、(さんじゅうにんどおり)、士雇(さむらいやとい)、細工人(さいくにん)、足軽(あしがる)、中間(ちゅうげん)等々、全部で七十の「階級」に編成され、この「階級」と禄高・俸給とによって格付けされ、序列化されていた。
つまり有朋(ありとも)は、非武士身分の藩奉公人と言う微妙な立場の家に生まれ、そこから這い上がる為に少年時代から槍術師範となる事を夢見て努力する少年だった。
その努力が認められたのか、友人・杉山松助の口添えが在ったのかは定かではないが、千八百五十八年(安政五年)、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した六人のうちの一人として、杉山松助、伊藤俊輔(伊藤博文)らとともに上京する。
その都の地で長州藩尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らに有朋(ありとも)は感化を受け月に九月に帰藩後、久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した。
有朋(ありとも)は、二十一歳で吉田松陰・松下村塾の門下生になり、松陰亡き後に高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、その後幕府との戦いに於いて高杉晋作の下で指揮をとる。
高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用した為、松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤博文や有朋(ありとも)のように足軽以下の身分の志士が多く出て、低い身分で在った者が世に出るきっかけを与えた。
松蔭門下となった事は、出自の低い有朋(ありとも)が世に出る一助となったと考えられ、入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下った為有朋(ありとも)の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。
【山縣有朋(やまがたありとも)その(二)】に続く。
☆関連小説
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★松下村塾・関連小説【松下村塾関係者・維新顛末記】を参照下さい。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-10-14 00:31