山本権兵衛(やまもとごんべい)その(二)
山本權兵衛(やまもとごんべえ)は、日清戦争後の三国干渉から将来のロシアの脅威に対抗出来る海軍に改革するために、人事を含む大規模な海軍に於ける行政改革を断行した。
当時は海軍省軍務局長その後に海軍省次官であったが、新聞各社で「権兵衛大臣(大臣は強健への皮肉)」の独断専行という表現で批判され、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも説明を求められた。
だが、海軍大臣の西郷従道は、全てを山本権兵衛(やまもとごんべい)に任せて自分が責任を取ると改革を進めさせた。
特に将官八人、尉佐官八十九人に及ぶ士官のリストラには、權兵衛(ごんべえ)に全てを任せた西郷従道さえも一時は疑問を呈したが、緊急の場合には予備役を現役復帰させれば良いとの説明に最終的には同意した。
千九百四年(明治三十一年)、山本權兵衛(やまもとごんべえ)は前任の海軍大臣・西郷従道の推薦に依り四十七歳の若さで、第二次山縣内閣の海相(海軍大臣)に就任し、その後日露戦争が終結するまでの約八年と言う長きに渡って事実上の海軍トップとして君臨した。
海軍大臣・山本權兵衛は、日露開戦直前に連合艦隊司令長官を東郷平八郎に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、「人事権は海軍大臣にある」と断行して東郷平八郎の活躍を生んだ。
權兵衛(ごんべえ)は国際情勢の観点から日英同盟を積極的に支持し、海軍条項を早期に同意するなど外務省に協力した。
日英同盟を有効利用し、当時世界の主要港を支配していた英国に中立を守らせ、日本海までの長期航海に於いてその補給・修理・休養を出来る限り妨害して日露戦争下の大日本帝国海軍を支え、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦前に疲労させた。
權兵衛(ごんべえ)は海軍大臣就任を切欠に陸軍との調整などで政治力を認められ、西郷従道亡き跡の海軍の重鎮の一人として存在感を強め、総理大臣の候補に名前が挙がるようになって行った。
藩閥に属するも政党および国会を尊重し、伊藤博文の立憲政友会に好意的な立場を取っていた權兵衛(ごんべえ)は同じ薩摩の元老・大山巌の支持で組閣が命じられ晩年の千九百十三年(大正二年)立憲政友会を与党として内閣総理大臣に就任し、第十六(第一次山本内閣)・第二十二代(第二次山本内閣)の総理大臣を務めた。
第二次山本内閣の組閣は、関東大震災の被害もまだ明けぬ千九百二十三年(大正十二年)九月二日で、帝都復興の為に權兵衛(ごんべえ)の政治力が期待されたのだろう。
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