桂太郎(かつらたろう)・その(一)
桂家の遠祖は毛利家の庶流で戦国時代の毛利氏家臣(宿老武将)・桜尾城主・桂元澄(かつらもとずみ)と伝えられ、姓は安芸国高田郡桂村に由来するとされ、同姓の木戸孝允(旧名は桂小五郎)も所謂(いわゆる)藤原流大江広元・桂元澄流と言う事には成る。
桂氏の居城となった桜尾城(さくらおじょう)は、厳島神社で有名な宮島の対岸、安芸国佐伯郡廿日市の瀬戸内海に面した海城(うみしろ)である。
太郎(たろう)の母・喜代子は長州藩上士・百八十石中谷家の娘、叔父の中谷正亮は松下村塾のスポンサーだった。
太郎(たろう)は松下村塾に入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死した時、数え年でまだ十三歳だったからで、それでも新政府に松下村塾関係者が多かった事から、中谷の甥で在った太郎(たろう)がどれほど恵まれたかは計り知れない。
千八百六十年(万延元年)の初出仕当初、家柄の良い太郎(たろう)は藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入され、正規軍である「選鋒隊」に編入された。
しかし、千八百六十四年(元治元年)七月、禁門の変(蛤御門の変)などにより藩が存亡の窮地に立たされるなか、同七月に世子・毛利元徳の小姓役となる。
薩長同盟の密約が為された後に幕府軍が起こし、長州に敗れて敗走した第二次長州征伐では、十七歳に成っていた太郎(たろう)は志願して石州方面(石見国/現・島根県西部)で戦う。
三年後の千八百六十八年に始まった戊辰戦争では、二十歳から二十一歳の太郎(たろう)は敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し奥羽各地を転戦した。
官軍は奥羽鎮撫総督・左大臣・九条道孝を、副総督に三位の公卿・沢為量(さわためかず)、 参謀に公卿・醍醐忠敬(だいごただゆき)、下参謀に 大山格之助(大山巌/薩摩藩)と世良修蔵(大野修蔵/長州藩)と言った布陣だった。
太郎(たろう)は参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、戦後その軍功を評されて賞典禄二百五十石を受けた。
戊辰戦争当時、仙台藩を盟主とし新政府軍に対応する奥羽越列藩同盟が成立し官軍は苦戦を強いられ、太郎(たろう)の部下は約二百名だったが、庄内藩に負け続けていて戦死者が四十一名、負傷者が五十三名と非常に高い死傷率にも関わらず、隊長の太郎(たろう)はかすり傷一つ負わなかった。
【桂太郎(かつらたろう)・その(二)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-10-20 00:20