久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)
久能山の由来であるが、六百年頃の推古大王(すいこおおきみ/天皇/女帝)のみ世に久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、駿河国の名産・静岡茶の始祖といわれる聖一国師など多くの名僧が往来し隆盛を極めたとされる。
戦国期は今川氏の所領と成っていたが、今川氏の滅亡後の千五百六十八年(永禄十一年)駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地・久能山に久能城を築いた。
その久能城も、武田氏の滅亡とともに駿河国は三河国の徳川家康の領有するところとなり、その支配下に入った。
天下が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の物となり、家康は一時関東へ国替えとなり久能城から離れるも、関が原の合戦の戦勝を経て征夷大将軍と成り、大阪の役で豊臣家を滅ぼして天下人と成る。
家康は将軍職を二代・秀忠に譲り、大御所と成って当時未だ西国方面に多い秀吉恩顧の大名に備えて、関東・江戸の守りも兼ねた立地である駿河・駿府城に隠居、晩年を駿府で過ごした。
大御所として駿府に在城当時の家康は「久能城は駿府城の本丸と思う」と評して久能山の重要性を説き、千六百十六年五月(元和二年四月)に死没 すると死後その遺言により久能山の地に埋葬された。
その一年後の千六百十七年(元和三年)には二代将軍・秀忠によって社殿が造営され、久能山東照宮と命名した。
特筆すべきは、後に三代将軍・家光に拠って造営された日光東照宮に存在する明智疑惑の桔梗紋などは、久能山東照宮には存在しない。
久能山東照宮の祭神は東照大権現(徳川家康)であり、相殿としては、一時家康が家臣として仕えた豊臣秀吉と同盟として家康の出世に力を与えた織田信長を祀っている。
その後、三代将軍・家光に拠って日光東照宮が造営され、日光東照宮へはこの久能山東照宮から「御霊の一部を移した」とされている。
久能山東照宮を管理したのは、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領した徳川四天王の一人・榊原康政(さかきばらやすまさ)の兄・清正の交代寄合格・榊原家宗家である。
久能山東照宮は五十年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、落成当初以来の多くの建造物が現存し二千十年に本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されるが、明治初期の廃仏毀釈によって五重塔を失っている。
日本の神社の成り立ちを氏神(氏上)に見る上でヒントになるのが明神(みょうじん)と権現(ごんげん)で、実は明神も権現も言わばこの世に現れた神様の事である。
代表的な氏上(神様)が、剣明神社(つるぎみょうじん/織田神社)や東照権現(とうしょうごんげん/日光徳川神社)と言う事になる。
【日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)】に続く。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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