平安時代(へいあんじだい)
つまり、凡そ千年に及び天皇の住まいし都・平安京(へいあんきょう)は、明治維新を経て千八百六十八年(慶応四年/明治元年)に、江戸(東京)の地に遷都(えどせんと)され、江戸は東京と名を変えて日本の首都となるが、時代としての「平安時代」の呼び名は千百八十五年(以前は千百九十二年説だった)の鎌倉幕府成立の時点で「鎌倉時代」と代わっている。
平安期の政治形態としては、天皇が自ら治世した「天皇親政」、藤原氏を中心とした「摂関政治(せっかんせいじ)」、上皇・法皇に拠る「院政政治(いんせいせいじ)」などの統治形態が在った。
平安期には、清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)などの女流作家が生まれ、貴族文化を象徴する七世紀後半から八世紀後半にかけて編纂された「万葉集)」が在る。
その「万葉集」以後の百五十年間をまとめる為、醍醐天皇の勅命によって編纂され九百五年(延喜五年)に出来た古今和歌集などの存在から、この平安期について単純に「平安文化が息づく良い時代」と考えている方が多い。
しかも現代に到っては、「平安」と言うネーミングそのものがその時代に対して「平和な良い時代」と言うイメージの先入観を持たせるに充分足りる名称である。
しかしそうした平安文化は、都の一部の氏族・貴族生活に於ける文献を基にした表面的な物を解釈したに過ぎない事に留意しなければならない。
桓武帝が平安遷都をした頃は、まだその大和朝廷(ヤマト王権)の権威が確立していたのは日本列島の半分・西日本に過ぎず、坂東(関東)以東から奥州(東北)に到る地域は、大和朝廷に取っては未だ混沌とした辺境の地だった。
確かに、華やかな平安貴族の文学に色採られた優雅な生活を生活に想いを馳せば、平安期を平和で文化的な「良い時代」と思い込んでしまうのも無理はない。
実はこの平安期、大和朝廷(ヤマト王権)が西日本から日本列島の全域に広がる過程の時代で、けして優雅に明け暮れる平坦な平和の時代では無かった。
むしろこうした平安文化を象徴する読み物や歌集に大和朝廷(ヤマト王権)が力を入れた背景は、地方の陰惨な現実を文化面で覆い隠す狙いでも在り、平安期の蝦夷支配の実態から目を逸らして後の世に伝え難くする政治的狙いが在ったのではないか?
つまり都の貴族生活だけが文献として後世に残り伝えられた物だから、影に隠れた庶民(良民)や奴婢(ぬひ)・俘囚(ふしゅう)の生活は認識から欠落し、また地方で起こった地方貴族の反乱や俘囚(ふしゅう)に拠る平安群盗など多くの騒乱の類も都の貴族生活に隠れてしまっていたのだ。
【鎌倉幕府成立大略】に続く。
この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。
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