平清盛(たいらのきよもり)と祇園女御(ぎおんのにょうご)の謎
ここからの平清盛(たいらのきよもり)一党を他の平氏と区別して平家とする。
平清盛、「皇統の出自」と言っても桓武天皇(第五十代)から数えて十三代目になる枝で、最初の身分は低い。
平清盛は、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として本拠地・伊勢の産品(うぶしな/現在の三重県津市)で産まれた事に成っているが生母は不明で、一応生母は祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれる女性の「妹ではないか」と通説されている。
伊勢平氏の棟梁・平清盛は伊勢平氏棟梁・忠盛の嫡子として生まれ、白河法皇の晩年の寵妃・祇園女御(ぎおんのにょうご)に仕えて出世の糸口を掴んでいる。
しかし怪しいのは、白河院政下の追討使として院近臣を務めた平忠盛の嫡子とは言いながら、平清盛が祇園女御(ぎおんのにょうご)の下で育てられた経緯である。
一説には、幼少の平清盛を庇護していたのは白河天皇(しらかわてんのう)の妾(正式ではない)とされる祇園女御(ぎおんのにょうご)と呼ばれた謎の女性で有る事や、清盛が十二歳で異例の従五位下左兵衛佐に叙任された事から清盛の実父は「白河天皇である」とのご落胤説もある。
どうやら平正盛(たいらのまさもり)は、妻(祇園女御/ぎおんのにょご・の妹)を一夜白河天皇に献上(お召し上げ)したか、それとも白河天皇の隠し子を我が子として引き受けた可能性がある。
それがつまり、平清盛(たいらのきよもり)・・・らしいのだ。
武士が「潔(いさぎよ)い」などと言うのは綺麗事で、ご承知のように歴史の真実には綺麗事ばかりが在る訳ではない。
何しろ稚児小姓(ちごこしょう)との衆道(しゅうどう/男色)関係も一般的に在った時代で、何も無い主従の信頼関係は脆(もろ)いもので、氏族社会では夫の栄達の為に女房(正室)の召し上げや献上は指して珍しくない事だった。
「お家」が大事な時代だったから召し上げや献上は情とは別の次元の話しで、「お家が権力者の後援を得る」と言う「利」がある事は立派な価値観だった。
誓約(うけい)の国・日本に古くからある連語の「一肌脱ぐ」は、今は「人を助ける」と言う広い意味に使われるが、元来相手に誠意を見せる為のこう言うナチュラル(自然体)な誓約(うけい)対応の時に使うのが正しい。
それだからこそ、「一肌脱ぐ」は効果的な手段と成って「助けたい相手の力に成る」と言うものである。
まぁ、もしかしたらこの時代の女性の方が余程「潔(いさぎよ)かった」のかも知れない。
召し上げも、中には召し上げられる方の女房(正史室)籍のままの事も在ったから、今と成っては闇の中だが平清盛が帝の種である可能性が在っても不思議はない。
「保元の乱」で功績の在った源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に、隠された何かが有るのだろうか?
平清盛には「出生に疑惑がある」とされている。
平清盛の血流・平氏は、皇統から臣籍降下で、賜姓の「平氏」を賜った皇胤(こういん)貴族の血統である。
平氏流(へいしりゅう)は、桓武天皇(第五十代)の第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)に端を発する高貴な血筋の武家の一門で、源氏流(げんじりゅう)に対抗する一方の旗頭であった。
しかしそれは武家としての平氏流であり、平氏として既に代を重ねた武家・平家は、かなり格が落ちていた。
つまり第三皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王の子・高望王(たかもちおう)が宇多天皇の勅命により「平朝臣」を賜与され臣籍降下して居る事から、皇統としては枝の枝である。
まぁ遠縁と言えば「そうかも知れない」と言うほど皇統と離れているその平清盛が、目覚しい出世をするのである。
武士の任官は三等官の「尉」から始まるのが通常で、二等官の「佐」に任じられるのは極めて異例な事で、落胤説にしろ祇園女御(ぎおんのにょうご)の口利きにしろ、いずれにしても清盛が相当朝廷(帝)に対するコネ(縁故関係)が強かった事に成るのである。
勿論、平清盛の白河天皇御落胤説が本当なら、然(しか)るべきである。
父・忠盛の死後、平清盛は平氏棟梁となり「保元の乱」で後白河天皇の味方をして信頼を得、「平治の乱」で源頼朝の父・源義朝を破って最終的な勝利者となる。
詳しくは、小論【平清盛(たいらのきよもり)の謎に迫る】を参照下さい。
【第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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