佐伯部民(さえきべみん)
佐伯部(さえきべ)は古代日本に於ける大和朝廷(ヤマト王権)の支配制度「品部(しなべ)」の一つである。
渡来人部族の集合体・大和朝廷(ヤマト王権)の拡大過程に於いて、中部地方以東の東日本を侵攻する際に捕虜とされた原住民を佐伯部民(さえきべみん)と言い、大和朝廷(ヤマト王権)側からは「蝦夷/えみし・毛人」と呼ばれていた。
その「蝦夷/えみし・毛人」を、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五ヶ国に送り近畿地方以西の西日本に移住させて編成したものが、佐伯部(さえきべ)の発祥とされる。
つまり佐伯部(さえきべ)は、畿内に先住していた蝦夷族の部族長・土公(つちぎみ)=猿田毘古神(サルタヒコ・宇治県主/うじあがたのぬし)依りも遅く、阿倍氏・安倍氏(あべうじ)依りも早くに大和朝廷(ヤマト王権)に降伏編入された縄文蝦夷系の部族の一つかも知れない。
佐伯部民(さえきべみん)については、今の北摂地方に住み着いていた縄文系(蝦夷・毛人)の小国家が、一時大和朝廷(ヤマト王権)から猪名県(いなのあがた)として支配体制に編入された事に始まる。
猪名県(いなのあがた)は古墳時代の大和朝廷(ヤマト王権)の時代に現在の吹田市から尼崎市までの北摂地方に置かれた県(アガタ)の一つで、この猪名県(いなのあがた)が日本の歴史文献「日本書紀」に登場するので、猪名県は奈良時代(平城京/へいじょうきょう)に成立したとみられている。
日本書紀には、仁徳天皇の頃に「佐伯部(さえきべ)」と言われる猪名県で形成され、近畿に属した大和朝廷(ヤマト王権)の軍隊が仁徳天皇へ馬を召し上げた」と書かれており、古来から猪名県は大和朝廷(ヤマト王権)と密接な関係に在ったとみられている。
この猪名県を支配していたのが、現在の大阪府箕面市石丸に存在する為那都比古神社の豪族であった「為那都比古(いなつひこ)一族」である。
飛鳥時代に起こった中大兄皇子・中臣鎌子らが蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、それに伴う改革である「大化の改新」以前に現在の北摂を支配していた小国家が成立していたとみられ、「為那都比古(いなつひこ)一族」もその一族だった。
その後、それらの小国家が大和合して大和朝廷(ヤマト王権)となった以後の三世紀から五世紀にかけての古墳時代、県(あがた)が成立したとみられている。
猪名県(いなあがた)を支配した為那都比古(いなつひこ)一族は猪名県成立以後も支配を続け、末裔が「猪名県主」として県主となっていた。
猪名県の県主は一切資料が現存しておらず詳細は謎のままであるが、西日本の瀬戸内海一帯に勢力を持った「佐伯部(さえきべ)」が、縄文系(蝦夷/えみし・毛人)の小国家「為那都比古(いなつひこ)一族」の末裔は間違いが無さそうである。
尚、佐伯部(さえきべ)の部民(べみん)の中には、朝鮮から日本へ渡来して来た「高度な文明を持つ者も居た」とも伝えられている。
そして詳しくは別にご紹介するが、平安期に活躍した真言宗開祖・弘法大師・空海は、俗名を佐伯真魚(さえきのまお)と言う。
讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)の間に誕生した子である。
【佐伯直氏(さえきのあたいうじ)と善通寺(ぜんつうじ)】に続く。
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