歴史の連続性的検証
その時代の出来事だけ挙げれば、その時代の専門家ほど詳しい方は居ないかも知れない。
しかし、その方々に目立(めだ)つ陥(おちい)り易い穴は、その時代だけの狭い範囲の解釈である。
そしてもっとも困るのは、時系列的に変化する思想や倫理観に思考を向けず現在の思想や倫理観を当時の時代に充て嵌めて解釈する事で、当時常態化していた事にも現代の基準で否定的に成ってしまう事である。
歴史には人間が営々と築いた連続性があり、歴史を研究する場合は連続性的検証を心掛ける事が重要である。
所が、「その時代の専門研究」と称して歴史の中の一ヵ所だけを切り取って研究するとその研究者の思い込みから想わぬ誤解を招いてしまう事がある。
例えば良く知られている事に、キリスト教が繁栄したのは王族、元老院、貴族達の堕落から滅亡したローマ帝国を反面教師とした禁欲主義だったからと伝えられている。
つまりそれ以前に起こった現象が反省を招いて、必然的に次の世を作る連続性が観られるのである。
歴史は時系列的に積み重なるもので、欧米人は最初から禁欲主義者ではなかったにも関わらず、そうした歴史的経緯は語られない事が多い。
だからこそ、歴史はその前段階に何が在ったのかが重要なフアクター(要素、要因、因子)となる事を肝に銘ずるべきである。
そこに注目しないまま前時代の出来事を無視し、その時代に起こった事象だけを解説する専門家は、歴史学の基本を呈して居ない事に成る。
そこで問題なのが、前段階の不都合な歴史を覆い隠そうとわざわざ虚構の歴史を構築する善人振った連中の存在である。
とくに史実に色気が混じったりすると、その事実を綺麗事の嘘に塗り替えてしまう事があたかも正義のごとく思っている輩が多い。
我輩には、歴史に綺麗事の建前を紛れ込ませる事に、「上手くやろう」と言うよこしまな意図がプンプン匂う。
しかし歴史には連続性が在り、以前に起こった事象が次の事象の原因であるから、よこしまな意図の綺麗事には整合性が無い。
歴史的背景なくして次の歴史は生まれない。
そこで我輩は、日本史の一気通貫(いっきつうかん)を著(あらわ)す試みとして本書・皇統と鵺の影人の執筆を始めた。
ついでにここで、一度「異常」の定義について考えて置きたい。
この「異常(いじょう)」と言う判定は、語彙(ごい)から言えば「常なら無い」と言う事であるが、その基準そのものが問題で、こうした基準は歴史と伴に変遷するものである。
「常」の判断は個人の思想信条からその時代の社会合意に到るまでの条件を勘案して下す判定であるから、今貴方が現代に於いて「異常(いじょう)」と下す判定が、過去の歴史シーンでは必ずしも「異常」ではなかった事を留意しなければならない。
つまり「常」と「異常(いじょう)」の判断は、その時代に起こった事象が当時に於いて常態化してしまえば「異常」と言う判定は存在しなくなる。
この物語で良く取り上げるが、「常識」と言う言葉はコモンセンス(common sense)の訳語として明治時代頃に日本に普及し始めた言葉で、実はこの時代以前には常識(じょうしき)と言う概念も用語も存在はしなかった。
維新後の日本政府は、欧米列強国に並ぶ為に欧米化を模索して「常識」と言う言葉と伴に、「建前」の構築が始まった。
それ以前の日本人はもっと「あるがまま」の本音が主流だった。
所が、「常識」と言う言葉に脅かされるように日本人は「建前」ばかりを言うようになった。
「常識」の普及前に使っていた似たような言葉に「世の常」があるが、この場合いの「世の常」の意味は自然発生的な世の中の常態を指す言葉で、言わば真言宗を広めた弘法大師(空海)の教え、「あるがまま」の境地に近い。
実はこの「あるがまま」が、日本が誇る和合精神文化の「共生主義」として実践されていた。
従ってこの「常識」と言う言葉を、明治維新以前の時代に台詞などで使うのは本来は時代考証に触れるのである。
つまり時系列を無視した夫婦別姓問題もそうだが歴史の連続性を考察しないと、時代考証的に的外れな答えを生み出してしまうのである。
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皇統と鵺の影人
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