広瀬武夫(ひろせたけお)
特に知っている伝説や名前には、「知っている」と言うだけで既に疑う事を放棄してしまう思考傾向を持っている。
そしてその思考傾向は、この日本列島でも神代の昔から統治に利用されて来た。
明治の大日本帝国海軍軍人である広瀬武夫(ひろせたけお/廣瀬武夫)は、日露戦争でのエピソードを広く取り上げられ、戦前は半ば国策的に「軍神」として神格化されていた。
広瀬武夫(ひろせたけお)は、豊後岡藩士・広瀬友之允(広瀬重武)の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。
幼少時に母親と死別し祖母に育てられるも激動の時代で、薩摩西郷軍が起こした西南戦争により豊後・竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。
武夫(たけお)は、飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務めるも千八百八十五年(明治十八年)に十七歳で退職、蘭学者・近藤真琴(こんどうまこと)が文久三年に興した攻玉社を経て海軍兵学校へ入学、講道館で柔道も学んだ。
なお、明治初期に兵部省に出仕した近藤真琴(こんどうまこと)は、築地海軍操練所(のちの海軍兵学校)内に塾を営むなど当初から海軍の要人を兼ねていた為、武夫(たけお)の海軍は攻玉社に入学した時点で既定路線だった。
千八百八十九年(明治二十二年)に二十一歳で海軍兵学校を卒業した武夫(たけお)は海軍に任官、千八百九十四年(明治二十七年)の日清戦争に従軍し、翌千八百九十五年(明治二十八年)には大尉に昇進している。
大尉昇進から二年後の千八百九十七年(明治三十年)、二十九歳の武夫(たけお)はロシアへ留学してロシア語などを学び、若き日本の将校としてロシア貴族社会と交友する一方、旅順港などの軍事施設も見学している。
ロシア駐在中に、社交界で武夫(たけお)はロシア海軍省海事技術委員会・コワリスキー大佐(後に少将)の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い、文通などを通じた交友が在った事も知られているが、アリアズナの父親は別の人物で在った事が明らかとなっている。
武夫(たけお)は、同じ千八百九十七年(明治三十年)にロシアへ留学のままロシア駐在武官となり、千九百年(明治三十三年)に少佐昇進、二年後の千九百二年(明治三十五年)に帰国する。
武夫(たけお)の帰国二年後、千九百四年(明治三十七年)日露戦争が勃発し、武夫は旅順港閉塞作戦に従事する。
その二回目の閉塞作戦に於いて閉塞船・福井丸を指揮し、撤退時に行方不明となった部下・杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助ける為船内を三度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死する。
武夫(たけお)は即日中佐に昇進し、流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。
広瀬武夫(ひろせたけお)は日本初の「軍神」となり文部省唱歌の題材になり、縁の各地に銅像、出身地の大分県竹田市に軍神・広瀬武夫を祀る広瀬神社が創建された。
尚、交友が在った彼女・アリアズナは、武夫(たけお)の戦死を聞いて「喪に服した」と伝えられている。
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