望月氏(もちずきうじ/古代豪族・滋野氏流)(二)
あの木曾義仲(源義仲)に助力し、その後鎌倉御家人となり家名を永らえる。
後醍醐天皇が起こした元弘の乱(げんこうのらん)に幕府方で戦うも、南北朝の争いでは宗良親王(むねながしんのう)を奉じて南朝に与して戦う。
南朝方・宗良親王(むねながしんのう)に与して戦った信濃望月氏は、戦国期に入り、望月城(現佐久市/旧北佐久郡望月町)を拠点に活動をする。
しかし隣国甲斐国の武田氏・武田信玄や、越後国の長尾氏・長尾輝虎(上杉謙信)などの度重なる侵攻によりその勢力は衰退して行く。
それでもこれは特記事項だが、戦国時代に大活躍した織田信長の生母・土田御前(どたごぜん)の土田氏(どたうじ)は、滋野氏の流れを汲む東信濃の名族・望月氏の傍流・根井行親(ねのいゆきちか)の流れとされている。
千五百四十三年(天文十二年)九月に到って、風前の灯と成った信濃望月氏は一族の望月源三郎が実弟の望月新六と共に武田氏に対し最後まで抵抗する。
だが、同じく滋野氏の流れを汲む真田幸隆(幸隆三男は真田昌幸)の仲介による説得を得て武田氏に臣従し、望月源三郎が望月氏の棟梁を継ぐ事になり、源三郎は、臣従後に晴信の一字「信」を与えられ信雅の名乗る。
その後望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を、武田信玄の弟で「兄・信玄を凌ぐ」とまで高評される典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)の嫁とし、信繁の子(望月信頼、望月信永)を信雅の養子とするなどして名族望月氏は武田一門に組み込まれて行った。
信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は、望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として六十騎を率いて本陣旗本として活躍する。
しかし、その望月信永は千五百七十五年(天正三年)に起きた甲斐源氏・武田氏と織田・徳川連合軍との「長篠の戦い」に於いて討ち死する。
その後望月氏は、しばらく信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれ、後に印月斎(信雅)が当主に復帰する異例の状態となる。
天目山の戦いで武田軍が織田軍に敗れ、多くの武将は織田信長によって誅殺されたが、印月斎(信雅)や望月権兵衛など難を免れた者達は、富士川流域の山間(現在の山梨県南部・南部町や身延町、早川町から静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)から、静岡県富士市や静岡市北西部からあたり)に身を隠し移り住んだ。
現在でも子孫の多くがこの地域に住んでおり、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身である。
印月斎(信雅)の引退後、跡目は望月昌頼が継ぐ事に成ったが、同名の盛時の兄とは年代的に別の人物と思われ一族の出身かは不明である。
その望月昌頼は北条氏の傘下に入るが、千五百八十二年(天正十年)九月、徳川軍の依田信蕃と一ヶ月に及ぶ功城戦の末に望月城は落城し、望月昌頼は十八歳の若さで自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。
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