観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と足利直義(あしかがただよし)〔一〕
しかし彼の弟・足利直義(あしかがただよし)も兄・尊氏に勝るとも劣らない武人だった為に、兄弟相争う観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は起こった。
都を掌握して北朝天皇を建てた足利尊氏は、弟の足利直義(あしかがただよし)と想いもしなかった対立をする破目に成る。
足利尊氏が後醍醐天皇を吉野に追い遣りほぼ天下を手中にするまでは、弟・足利直義(あしかがただよし)は力を合わせられる良き相方だった。
所が元々親子兄弟はライバルの側面を持つから、なまじ臣下に納まり切れない弟が居ると覇権争いが起きる。
初期の足利幕府に於いては、足利家の家宰的役割を担い主従制と言う私的な支配関係を束ねた執事・高師直(こうのもろなお)が軍事指揮権を持つ将軍・足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。
訴訟を担う足利直義(あしかがただよし)は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱う事が多かったが、鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向していた。
その為足利直義(あしかがただよし)の政務は、自然に公家・寺社や有力御家人の既存の権益を保護する性格を帯びるように成った。
一方、武士を統率し南朝方との戦いを遂行する師直(もろなお)は、従来の荘園公領制の秩序を破っても権益を獲得しようとする武士達を擁護する事で軍事力を組織していたのだが、そのそれぞれの立場の違いから必然的に両者は対立する事になる。
南北朝時代の初期に楠木正成(くすのきまさしげ)・北畠顕家(きたばたけあけいえ)・新田義貞(にったよしだだ)ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟らの戦功は目覚ましかった。
しかし千三百三十九年に後醍醐天皇(第九十六代)が没して後の畿内は比較的平穏な状態となった為に師直(もろなお)の勢力は後退し、尊氏の弟・直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。
千三百四十七年(正平二年/貞和三年)に入ると、南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)が京都奪還を目指して蜂起し、直義派の細川顕氏(ほそかわあきうじ)・畠山国清(はたけやまくにきよ)が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、さらに山名時氏(やまなときうじ)も増援派兵されたが京都に敗走した。
代わって起用された(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟は、翌千三百四十八年(正平三年/貞和四年)の四條畷の戦いで南軍を撃破し、更にに勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇(第九十七代、南朝第二代)ら南朝方は吉野奥の賀名生(あのう/奈良県五條市)へ落ち延びた。
この結果、幕府内で直義(ただよし)の発言力が低下する一方、師直(もろなお)の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車が掛って行く。
千三百四十九年(正平四年/貞和五年)六月、上杉重能(うえすぎしげよし)や畠山直宗(はたけやまただむね)、禅僧の大同妙吉(だいどうみょうきち)らの進言により、直義が将軍・尊氏に要求した結果、師直(もろなお)は執事を罷免され、後任は甥の高師世(こうのもろよ)となる。
「太平記」に拠れば直義派による師直暗殺騒動も存在したとされ、さらに直義は、北朝方の光厳上皇(こうごんてんのう/北朝第一代)に追討の院宣を要請して師直を討とうとしている。
まだ力を保有していた師直(もろなお)は、八月十二日に河内から軍勢を率いて上洛した師泰(もろやす)とともに直義を討とうとし、翌十三日、直義(ただよし)は尊氏の邸に逃げ込むが、師直(もろなお)の軍勢が尊氏邸を包囲し、上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)の身柄引き渡しを要求する。
禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)の仲介もあり、重能・直宗の配流、直義が出家し幕政から退く事を条件に、師直(もろなお)は包囲を解き直義に代わり鎌倉にいた尊氏の嫡子・義詮(よしあきら)が上洛して政務統括者となる。
この事件は、直義派の排除の為に「尊氏・師直が示し合わせていた」とする説もある。
同年十一月に義詮(よしあきら)が入京し、十二月に直義(ただよし)が出家して恵源と号して一端は治まりかけたこの月に上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)が配流先で師直(もろなお)の配下に暗殺された事から、両者の緊張は再び高まった。
この年の四月に長門探題に任命されて備後国に滞在していた直義の養子・直冬(なおふゆ)は、事件を知って直義に味方する為に上洛しようとしたが、幕府が討伐軍を送った為に直冬は九州に敗走し、直冬は少弐氏らに迎えられ九州・中国地方に勢力を拡大して行く。
翌千三百五十年、北朝方は「貞和」から「観応」に改元し、その十月、西で拡大する直冬(なおふゆ)の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討の為に出陣するが、その直前に直義(ただよし)が京都を出奔していた。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と足利直義(あしかがただよし)〔二〕に続く。
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