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足利義教(あしかがよしのり)

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町幕府・六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)謀殺事件である。

時の将軍が謀殺されるなどはとんでもない大事件だが、六代征夷大将軍・足利義教(あしかがよしのり)はそのとんでもない事件で命を落とした歴史的将軍である。

六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)は、その降って湧いたような将軍就任の経緯も在ってかコンプレックスの塊だった。

義教(よしのり)は三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の三男で、四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の同母弟だが、得度して門跡となり「義円」と名乗った同じ日に、義満に溺愛された異母弟の足利義嗣が従五位下に叙爵されており、義円は義満の後継者候補から外れた。

その異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)は、関東地方で起こった上杉禅秀の乱に関与していたとして将軍・義持(よしもち)が相国寺等に幽閉、二年後の千四百十八年(応永二十五年)に殺害している。

門跡となった義円は、十一年後には百五十三代天台座主となり一時大僧正も務めたが、千四百二十五年(応永三十二年)、四代将軍で兄の足利義持の子・五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)が急逝(在職三年で早世)し、義持も千四百二十八年(応永三十五年)正月に重病に陥った。

前将軍・義持が後継者の指名を拒否した為に群臣達の評議が行われて結果、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の四人中から、石清水八幡宮で籤(くじ)引きを行い将軍を決める事となり、義持の死後籤(くじ)を開封して義円が後継者に定まった。

為に義円は還俗して義宣と名乗り、義宣は義教(よしのり)と改名して参議・近衛中将に昇った上で征夷大将軍となったが、その後継手段から「籤(くじ)引き将軍」とも呼ばれた。

門跡に在った義教(よしのり)は六代将軍となっても将軍としての帝王学を学んだ訳でもなく、周囲の重臣は四代将軍・足利義持(あしかがよしもち)や五代将軍・足利義量(あしかがよしかず)の代からのベテランで扱い辛い。

この時代の将軍権力継承のシステムとして、当時の出仕習慣では多くの有力者は次期将軍と目される者に自らの子女を男なら幼い頃から御伽(おとぎ/男色)相手を務めるなどの稚児小姓・御伽衆として館に上げ、女なら側女にお仕えさせて強固な関係を築き、お家の次代の安泰を図る。

子飼いの臣とはそんなものだが、所が門跡に在った籤(くじ)引き将軍・足利義教(あしかがよしのり)にはそうした有力豪族との接点が無い。

つまり信頼を置くべき臣従関係として、有力守護職との間で事前に形成されるべき将軍職継承の為の暗黙の絆・「誓約(うけい)」が無いままの異常事態だった。

義教(よしのり)には、将軍職を強固な物にする為に扱い易い子飼いの重臣を揃える必要があった。

有力守護を抑えて将軍の地位を強化しようと、一色義貫、土岐持頼ら有力守護を討って幕府の権威を高めんと画策した将軍・義教の矛先が、次に赤松満祐(あかまつみつすけ)に向いて来るのは間違いなかった。

黙って居れば、将軍・義教の意に沿わない守護は潰されてしまう運命で、事此処に到っては赤松満祐一族は切羽詰っていた。

嘉吉の乱(かきつのらん)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-02-17 00:50  

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