越前福井藩・松平綱昌(まつだいらつなまさ)
以下、江戸時代の改易について一部記述するが、符合する事に千六百七十二年に水戸藩の大日本史編纂事業が本格化し軌道に乗り始めたと思える七年後辺りから大名改易(だいみょうかいえき)が増加している。
千六百七十九年には上総久留里藩二万石・土屋直樹、備中庭瀬藩二万石・戸川安風、常陸玉取藩一万二千石・堀通周の三家、翌千六百八十年には志摩鳥羽藩三万五千石・内藤忠勝、丹後宮津藩七万三千石・永井尚長の二家が改易(かいえき)となる。
そして編纂事業九年目に当たる千六百八十一年には越後高田藩二十六万石・松平光長を筆頭に、駿河田中藩四万石・酒井忠能、上野沼田藩三万石・真田信利、武蔵高坂藩一万三千万石など四家、都合約三十五万石近くが取り潰されている。
以後は千六百八十三年の上野館林藩二十五万石・徳川徳松、千六百八十三年の越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)が目立つ所で、十数年後の千六百九十七年の美作津山藩十八万六千石まで大きな改易は無い。
勿論、継嗣が無いなどの改易理由があるが表向きで、何事も咎めが無ければ養子が認められ、現実には乱心・乱行などの行状を咎められた物も多い。
この諸侯の行状探索に、水戸藩CIAとして編纂調査を名目としたの現地調査の暗躍が、「無かった事」とは言い切れない。
越前福井藩四十七万五千石・松平綱昌(まつだいらつなまさ)の処置は正確には改易(かいえき)とは言い切れない。
松平綱昌(まつだいらつなまさ)は、先代藩主・松平昌親の代に起こった家督騒動が原因で、藩内に於いても昌親に対する反発が在った為、昌親の兄に当たる昌勝の子・綱昌を養嗣子として藩内の鎮静化を図った処置で昌親の養嗣子となる。
綱昌(つなまさ)は、元服し従四位下侍従に叙任、越前守と名乗った後、千六百七十六年(延宝四年)七月二十一日、昌親から家督を譲られて藩主となる。
四年後の千六百八十年(延宝八年)八月十八日、綱昌(つなまさ)は左近衛少将に任じられるも、翌千六百八十一年(延宝九年)の三月、理由も無く側近を殺害する事件を起こし、次第に奇怪な行動を取り始める。
そんな折に藩内に飢饉が起き、越前福井藩では上手く対応できず藩内に多数の餓死者を出した。
そうした不祥事が重なる中、千六百八十五年(貞享二年)には綱昌(つなまさ)が江戸城登城をも怠った為、翌貞享三年閏(うるう)三月、遂に幕府は綱昌(つなまさ)の狂気を理由に蟄居を申し渡し、綱昌は江戸鳥越の屋敷へ身柄を移される。
本来なら大名家改易と言う所だが、徳川家康の二男・結城秀康の子孫である御家門の越前松平家を取り潰す訳にも行かず、幕府は前藩主・昌親に知行半減(二十五万石)と言うペナルティを与えた上で存続を許している。
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