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小村寿太郎(こむらじゅたろう)

明治期の外交官を代表し、外務大臣、貴族院議員などを務めた政治家に、侯爵・小村寿太郎(こむらじゅたろう)がいる。

千八百五十五年(安政二年)九月十六日、小村寿太郎(こむらじゅたろう)は日向国・飫肥藩(おびはん/現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部)の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。

飫肥藩(おびはん)は家格・外様大名で藩主・伊東氏藤原南家流・伊東(伊藤)系の鎌倉御家人で、鎌倉期に日向国の地頭に任じられ、室町期の千三百三十五年に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡三百町を宛がわれて下向した事に始まる戦国大名である。

父・小村寛平が出仕していたのは、江戸期に現在の宮崎県日南市のほぼ全域および宮崎市南部に在って日向国那珂郡のある南部を支配した藩が飫肥藩(おびはん)で、知行は五万一千石、藩庁は飫肥城(おびじょう)に在った。

千八百三十年(明治三年)、寿太郎(じゅたろう)は大学南校(東京大学の前身)に入学、千八百七十五年(明治八年)第一回文部省海外留学生に選ばれてハーバード大学へ留学し、法律を学ぶ。

千八百七十八年(明治十年)ハーバード大学卒業後、ニューヨークの弁護士事務所で研修の後の千八百八十年(明治十三)寿太郎(じゅたろう)二十五歳の時に帰国する。

帰国後、寿太郎(じゅたろう)は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出し、陸奥宗光に認められて清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使や外務次官、駐米・駐露公使を歴任する。

司法省に入省から二十年、四十五歳に成っていた寿太郎(じゅたろう)は、千九百年(明治三十三年)の義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたり、翌千九百一年(明治三十四年)には第一次桂内閣の外務大臣に就任して千九百二年(明治三十五年)の日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込み、功により男爵を授けられる。

寿太郎(じゅたろう)は日露戦争後の千九百五年(明治三十八年)、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印する。

小村寿太郎(こむらじゅたろう)に関しては一貫して外交畑を歩き、千九百八年の第二次桂内閣でも外務大臣に再任され日露講和条約締結、幕末以来の不平等条約を解消する為の条約改正の交渉を行い、日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たす。

また寿太郎(じゅたろう)は日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進め韓国併合の功により侯爵授けられた。

満洲権益に関連してアメリカの鉄道王・ハリマンが満洲に於ける鉄道の共同経営を提案(桂・ハリマン協定)したのを首相や元老の反対を押し切って拒否するなど独自の意見も持っていて、その後の日本外交の大陸政策の流れを追うと軍事膨張主義の道筋をつけた一人で、その評価は分かれる所である。

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by mmcjiyodan | 2011-04-21 10:27  

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