相馬氏(そうまうじ)
この相馬氏(そうまうじ)が、領主として七百年以上もの永い間統治する実績を残し、相良氏、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主となる。
相馬氏初代の相馬師常(そうまもろつね)は、鎌倉時代初期の武将・千葉常胤の次男で、師常が父・常胤より相馬郡相馬御厨(現在の鎌ケ谷市、柏市、流山市、我孫子市、野田市の一帯)を相続された事に始まる。
相馬御厨(そうまみくりや)は平忠常以来の房総平氏の代々の土地で、上総氏(かずさうじ)の祖である常晴が既に相馬氏を称し、その相馬常晴の子・常澄(父親と折り合いが悪く家督は継がなかった)も相馬六郎と号し、また常澄の子・常清も相馬氏を称していた。
鎌倉初期、上総広常の失脚と共に千葉師常が相馬御厨(そうまみくりや)の地に据え、それに因んで相馬氏を称し、常清の系統は姓を相馬氏から角田氏に改めている。
相馬師常(そうまもろつね)には、平将門(たいらのまさかど/相馬小次郎)の子孫である篠田師国の養子に入り、将門に縁の深い「相馬御厨(そうまみくりや)を継承させた」とする伝承がある。
但し、将門が本拠としていたのはもっと北の豊田郡・猿島郡であり、相馬郡はその周縁部でしかなく相馬氏による相馬郡支配の正当化を図る為のこじつけとする見方もある。
相馬師常の子孫は相馬御厨を中心として活動していたが、四代胤村の死後、後を託した後妻の子・師胤(五代)と先妻の子・胤氏とが家督を争った。
相馬師胤(そうまもろたね)は父の譲状を鎌倉幕府に提出したが幕府はこれを認めず、胤氏(たねうじ)を継承者として認めた。
この為、師胤の子・重胤(しげたね/六代)の代に所領として許された陸奥国(磐城)行方郡に入り、胤氏一族は下総に残留して下総相馬氏となる。
この両家はその後も所領争いを繰り返し、後の南北朝の戦いでは奥州側は北朝方、下総側は南朝方であった。
奥州の相馬氏は、遠祖・千葉氏が源頼朝から奥州に領地を受けた後、千葉一族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州に於いて数少ない北朝方の一族として活躍したものの、南北朝の争乱が収まるとやや衰退する。
室町時代後期に標葉氏を滅ぼしたものの、それでもなお、戦国時代初期には、行方郡・標葉郡・宇多郡の三郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。
しかし、武勇に秀でた当主が続き、更に独立心が旺盛で、奥州の大名・伊達氏、更に関東の大名・佐竹氏に対しても一歩も退かず、伊達氏とは三十度以上にわたって抗争を続け、たびたび苦杯を舐めさせている。
やがて伊達氏に伊達政宗が現われ、南奥州の諸大名が政宗の軍門に悉く降った時も、相馬氏は敗戦したとはいえ、独立を維持し伊達氏と戦う意地を見せた。
奥州相馬氏と下総相馬氏は、千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉に拠る小田原の役でも敵対関係となり、奥州側は豊臣方について本領を安堵され大名として残ったのに対し、下総側は小禄の旗本として衰退、両相馬が正式に和解したのは十八世紀に入ってからとされている。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いて中立して勝敗を見定めるも、豊臣政権時代に西軍・石田三成と親密であった佐竹義宣 の弟・岩城貞隆と婚姻を結ぶなどしていた為に西軍寄りとみなされる。
為に戦後徳川氏により一旦改易されたが、これを訴訟を起こして凌ぎ切り、再び本領安堵にこぎつけて近世大名として生き抜く事に成功した。
その後も、秋田に転封された佐竹氏とは養子を送り合うなどして補完関係を築き、奥州相馬氏は福島県相馬地方を明治時代にいたるまで、実に七百年以上もの長い間統治し、相良氏(さがらうじ)、島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。
相馬氏は下総、陸奥の他にも分家、諸族は日本全土に拡散しており、彦根藩・井伊家に仕えた一族の末裔からは相馬永胤(そうまながたね)を輩出している。
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