人気ブログランキング | 話題のタグを見る

佐竹氏(さたけうじ)〔二〕

佐竹氏(さたけうじ)〔一〕】へ戻る。

室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応した事から守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君とした事で足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれる事も少なくなかった。

佐竹氏は室町期の鎌倉府の重鎮として活躍し、第三代鎌倉公方の足利満兼より関東の八つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。

しかし、佐竹氏宗家の第十一代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第十二代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く山入氏はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。

山入氏が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こした事、さらには、名目上傘下に在ったものの実際には独立勢力で在った大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあった事から、「佐竹氏の勢力基盤は脆弱であった」と言える。

こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れ、佐竹氏第十五代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜(さたけよしきよ)が現れ、山入氏を討ち、漸く常陸北部の制圧に成功する。

しかし相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。

義舜(よしきよ)の曾孫で佐竹氏第十八代当主の佐竹義重(さたけよししげ)は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。

義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。

甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは千五百八十四年(天正十二年)に「沼尻の合戦」と呼ばれた沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決している。

また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつ在った。

この為、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏(あしな)や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と千五百八十五年(天正十三年)、人取橋(現在の福島県本宮市)で「人取橋の戦い」と呼ばれる対決をした。

「人取橋の戦い」では、佐竹方は三万の大軍を率い、伊達方の十倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし佐竹義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉小田原の役に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、結城氏の所領の常陸国・土浦城、下館城一帯を除く常陸国の大半五十四万五千八百百石の大名として認められた。

水戸城の江戸重通は小田原の役に参陣しなかった為に所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。

漸く常陸国の大半を領する戦国大名に成った佐竹氏だったが、千六百年(慶長五年)に石田三成率いる豊臣西軍と徳川家康率いる東軍に拠る関ヶ原の戦いが起こると家中での意見がまとまらずに当主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)は旗色を鮮明にせず中立的な態度を取った。

戦後処理は翌千六百一年にはほぼ終了し、千六百二年(慶長七年)の三月には義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。

所が五月になると、義宣は出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)二十万五千八百石(実高は四十万石説有り)に減封の上で国替えを命じられる。

この処置は、関ヶ原の戦いに於いて家康を追撃する密約を「上杉景勝と結んでいた事が発覚した為」と言われている。

また別の見方では、徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏と目された上、合戦に直接参加していない為に軍団が無傷で残っており、脅威で在った事からとも言われている。

この徳川氏に拠る減封の上で国替えの処置で、佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。

しかも当初は、この処遇の際に出羽一国となる予定だったが、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「半国で良し」と決められてしまった。

後に本多正純が「宇都宮城釣天井事件」で政争に負け失脚した時、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。佐竹氏に取って正純は減封国替えの仇がある相手である為、流罪にあたり「恩情をかける事は無い」と判断しての処置で、正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えた。

出羽国に移封した佐竹氏は、江戸時代を通じて久保田藩(秋田藩)を支配する外様大名として存続し、千八百八十四年(明治十七年)、佐竹氏宗家(旧久保田藩主)当主・佐竹義堯は侯爵に叙任されている。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

関連記事
三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2011-05-12 11:04  

<< 源義光(みなもとのよしみつ/新... 佐竹氏(さたけうじ)〔一〕 >>