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阿蘇氏(あそうじ)と甲斐氏(かいうじ)〔二〕

阿蘇氏(あそうじ)と甲斐氏(かいうじ)〔一〕】に戻る。

甲斐親直(かいちかなお/宗運)の甲斐氏の本流・菊池氏(きくちうじ)は、本姓を藤原氏とし、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。

阿蘇氏家老職・甲斐氏は、鎌倉時代末期、菊池武房の子・武本(武村とも)が一族の内紛から甲斐都留郡(現山梨県)に逃れて住んだ肥後国・菊池氏の支流で、九州に戻って日向国高千穂に土着し、阿蘇氏重臣となった一族だった。

菊池武本(武村とも)の子孫・重村は南北朝初期足利尊氏に従って九州に下向し、甲斐氏を称して千三百三十八年(延元三年)、大友氏の援軍とともに肥後へ進出した。

しかし、南朝方の菊池武重に敗れて日向縣(あがた)に土持氏(つちもち)を頼って逃れ、後に高千穂鞍岡(現、五ヶ瀬町内)に土着して同地の国人となった。

千五百十四年頃の戦国時代、藤原菊池流・甲斐親宣(かいちかのぶ)は、日向国高千穂・鞍岡の国人領主だった。

千五百十七年(永正十四年)に前阿蘇大宮司・阿蘇惟豊(あそこれとよ)が菊池武経(きくちたけつね)との争いに敗れ肥後から落ち延びて来ると、親宣(ちかのぶ)はこれを助け、矢部浜の館に復させ領主復権に成功させる。

以後、甲斐親宣(かいちかのぶ)は阿蘇家の筆頭家老として活躍し、その継嗣・甲斐親直(かいちかなお/宗運)も阿蘇家の家老職を継承する。

阿蘇家当主・阿蘇惟豊(あそこれとよ)は豊後・大友氏と盟友関係に在った為に島津氏の肥後征討の目標となり、惟豊の死後阿蘇大宮司に背く内通者が現れる。

阿蘇家々老職・甲斐親直(かいちかなお/宗運)は、島津氏に内通した肥後益城郡・御船房行(みふねふさゆき)を益城郡の御船城に攻め落とす。

甲斐親直(かいちかなお/宗運)は御船城主となり、幼主・惟光(これみつ)を筆頭家老として軍事外交両面に於いて補佐し、僅かに阿蘇家の命脈を維持するも、親直(ちかなお/宗運)亡き後は、千五百八十五年(天正十三年)島津氏に降伏した。

尚、この甲斐氏(かいうじ)の当主の一人に、後ほど御紹介する「鬼八伝説(きはちでんせつ)」に於ける神代の時代からの伝承に基づき生身の乙女を供する事が続けられて居た「人身御供」を戦国時代に止めさせたのが、甲斐宗摂(かいそうせつ/宗運の庶子)の命令である。

以後、甲斐氏姓は肥後、日向、豊後、薩摩の各地に拡大し、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。

豊臣秀吉九州平定後阿蘇氏は、熊本城主・佐々成政を頼るも、後に国人一揆によって佐々成政は秀吉から切腹を命じられ、肥後の領主は加藤清正に代わったが、清正の朝鮮出兵中に、惟光(これみつ)は謀叛の嫌疑を受け阿弥陀寺で殺害された。

清正は帰国後、惟光(これみつ)の弟・惟善(これよし)に封土(神社領)を与え、大宮司職を復させた以後は代々阿蘇神社社家として存続し、明治に至り男爵を授けられ華族に列した。

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by mmcjiyodan | 2012-06-20 23:30  

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