相良氏(さがらうじ)
その相良氏(さがらうじ)は、鎌倉期に肥後国多良木荘の地頭職から勢力を築き、やがて最盛期には肥後国南部を支配した戦国大名である。
平安末期の遠江国・相良荘領主・相良頼景の時代に相良氏(さがらうじ)は伊豆で兵を挙げた源頼朝を無視して協力せず、その後も平家方に徹して頼朝に対して不遜な振る舞いを続けた為、鎌倉幕府が成立すると相良頼景は肥後国・多良木荘に追放された。
しかし相良頼景は、千百九十七年(建久八年)、鎌倉に行き許されて将軍・頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられて多良木荘の地頭に任命される。
さらに、相良荘に残っていた頼景の長男・長頼も二俣川の合戦(畠山重忠の乱)で手柄をたて人吉荘を与えられた。
相良頼景が領した多良木荘四ヶ村のあとは長頼の子・頼氏が継いで為に多良木荘の地頭・相良氏は上相良氏、人吉荘は長頼三男・頼俊が継承して人吉荘の地頭・相良氏は下相良氏と呼ばれる。
この上相良氏と下相良氏は、南北朝並立の時に多良木の上相良氏は菊池氏に通じて南朝方に属し、人吉の下相良氏は北朝方に付き、対立関係となった。
その後南朝方の弱体化と伴に上相良氏の勢力も弱まって終(つい)に北朝方に降伏、下相良氏の隆盛が際立つように成った。
室町時代の千四百四十八年、下相良氏の相良長続(さがらながつぐ)が上相良氏を滅ぼし、球磨・八代・葦北の肥後三郡の統一に成功する。
戦国時代に入ると相良義滋が現われて戦国大名化を果たし、義滋の後を継いだ相良晴広の時代には有名な分国法・「相良氏法度二十ヵ条」や「晴広式目十一ヵ条」を制定し、また明との貿易にも取り組んで相良氏は最盛期を迎えた。
晴広の子・相良義陽の代に入って、千五百八十一年に南から島津義久(しまずよしひさ)の侵攻を受けて降伏。
しかも同年に当主・義陽が甲斐(宗運)親直(阿蘇氏家老)と戦って戦死する。
相良氏は一時、滅亡の危機に立たされるも、義陽の次男・相良頼房が、家臣の犬童頼安や深水長智らの補佐を受けて活躍し、九州平定後、豊臣秀吉より人吉二万石の領主として存続を許された。
千六百年の関ヶ原の戦いで、頼房は西軍に属して伏見城攻防戦などに従軍したが、本戦で西軍が東軍に敗れると寝返った為、戦後、徳川家康より所領を安堵され、相良氏は人吉藩として存続した。
相良氏(さがらうじ)は、相馬氏、島津氏と並び、明治維新まで八百年以上領地替えされる事もなく続いた世界でも稀有な大名(領主)である。
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