間部詮房(まなべあきふさ)
始め西田詮房(にしだあきふさ)と称し猿楽師(現在の能役者)喜多七太夫の弟子であったが、千六百八十四年(貞享元年)に甲府藩主・徳川綱豊(後の徳川家宣)の用人になる。
家系が藤原北家魚名・山蔭流間鍋氏で在った西田詮房(にしだあきふさ)は西田から間鍋に改名し間鍋詮房(まなべあきふさ)を名乗ったが、徳川綱豊の命によって間部氏となる。
先代・五代将軍・綱吉が継嗣に恵まれなかった為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。
徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。
その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)や「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。
詮房(あきふさ)は側衆になり、千五百石加増を皮切りに累次加増され、千七百六年(宝永三年)には、相模国内で一万石の大名となり、後に加増を重ね高崎藩・五万石を得ている。
大名家に於ける「藩主腹心の部下」を醸成するシステムについては大方二つの形態が在る。
その一つが八代将軍・吉宗に代表する傅役(もりやく)・加納(五郎左衛門)久通の様な存在で、今一つは五代将軍・綱吉に代表する柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の様に夜伽(よとぎ/性的奉仕)の衆道(しゅうどう/男色)相手の稚児小姓を務めて腹心の部下に成る方法だが、間部詮房は六代将軍・家宣の四歳年下と言う事で、明らかに後者の「小姓を務めて無二の信頼を得た」と考える方が無理が無い。
新井白石(あらいはくせき)の正徳の治は、六代将軍・家宣(いえのぶ)を後ろ盾に押し進められてが、白石(はくせき)の身分(本丸寄合の無役)が低かった為、一々側用人・間部詮房(まなべあきふさ)を通して将軍への進言が為されている。
絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。
間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住)の屋敷に移るが、後に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。
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