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大倉喜八郎(おおくらきはちろう)

大倉喜八郎(おおくらきはちろう)は、武器商人から財を為した為に「死の商人」とも「死の政商」とも呼ばれた男である。

喜八郎(きはちろう)は中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者で男爵を受爵し、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。

千八百三十七年(天保八年)越後国新発田(現・新潟県新発田市)に名主・大倉千之助の三男・喜八として生まれる。

この年はちょうど、徳川家慶(とくがわよしのぶ)征夷大将軍に就任した攘夷運動真っ盛りの年である。

喜八(きはち)は、千八百五十四年(嘉永四年)十七歳の時に江戸に出て鰹節店に奉公奉公する。

三年で鰹節店の仕事を覚えた喜八(きはち)は、実家が名主と言う資金力に恵まれて千八百五十七年(安政四年)に乾物屋・大倉屋を二十一歳で独立する。

その十年後に貿易で一旗挙げようと考え、横浜の外国人居留地を観察して鉄砲に目を着け、乾物店を廃業し、知り合いに口を利いてもらい、八丁堀に財った鉄砲商・小泉屋で五ヶ月間修行し、千八百六十七年(慶応三年)に大倉銃砲店を開業、名も喜八から喜八郎(きはちろう)と改める。

この大倉銃砲店開業の年、千八百六十七年(慶応三年)の年末に将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に大政奉還を行うが、戊辰戦争の端緒となる鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)が京都で起こり官軍が江戸へ攻め上って来る。

翌年千八百六十八年(慶応四年)、折からの戊辰戦争に大倉銃砲店は軍需品の供給を行い大繁盛して富を築く。

戊辰戦争後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興すも、明治政府要人と太いパイプを得た喜八郎(きはちろう)は、台湾出兵日清日露と戦争軍需に拠って大儲けした事から死の商人、死の政商と呼ばれた。

軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど「大倉組が独占した」と言う凄まじい軍事財閥だった。

そんな喜八郎(きはちろう)だったが、流石(さすが)に晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じ、渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した事でも有名である。

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by mmcjiyodan | 2011-08-01 19:37  

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