日本最古の大地震の記録
西日本太平洋沿岸に推定マグニチュード八~八・四の大地震が起こり、山崩れや家屋・社寺の倒壊多数が記録されている。
白鳳地震(はくほうじしん)は天武地震(てんむじしん)とも呼ばれ、白鳳時代(飛鳥時代後期の天武帝の御世)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。「日本書紀」に記述がある為、有史以来確かな記録の残る東海・東南海・南海連動型地震と推定される地震としては「最古のも」のとされている。
平安時代の八百六十九年に奥州太平洋岸にて発生した貞観地震(じょうがんじしん)は、当時の歴史書「日本三代実録」に、「海は猛(たけ)り吼(ほ)え、津波が怒濤(どとう)のように多賀城下に押し寄せ、千人がおぼれ死んだ」と記述がある。
当時の海岸から約五キロ内陸の多賀城跡(宮城県多賀城市)周辺では道路が寸断された跡が見つかり、仙台市などでは津波で運ばれた堆積物もあった。
実はこの貞観大地震(じょうがんだいじしん)、「貞観(じょうがん)の富士山大噴火」から五年後に奥州三陸地方でが発生していて、火山噴火と大地震は何らかの繋がりが在りそうである。
八百七十八年(元慶二年)には関東南部でマグニチュード七以上の直下型大地震・元慶地震(がんぎょうじしん)が発生、奥州鎮撫の拠点が混乱する。
地震の混乱に乗じて出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)が反乱し、秋田城等を焼く元慶の乱(がんぎょうのらん)が勃発、鎮圧に五~六ヵ月を要している。
この出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)の反乱、立場の違いで朝廷側に言わせると反乱だが、蝦夷の俘囚側にすれば部族抵抗の聖戦である。
つまり七百八十年代以降に桓武天皇の命で坂上田村麻呂が制圧した東北の蝦夷も、この頃はまだ隙あらば抵抗している最中だった。
この年(元慶二年)、朝廷の統治組織として地方官任命交代をスムースにさせる為の令外官・押領使が新設されている。
平安中期の八百八十七年(仁和三年)に起こった仁和大地震では、日本三代実録に「都(京都)の建物は倒壊し圧死する者多数在り、海岸には海潮(津波)が押し寄せ無数の人がおぼれ死んだ。
大阪湾岸も「津波被害が甚大だった」と記録があり、更に「東海から四国にかけて甚大な被害があった」と言う。
近年、東海巨大地震発生の切迫性が伝えられている。
百五十年サイクルで起こる巨大地震の危険地域・東海沖が、既に百五十年を地震発生を見ず経過している。
本来は「来ない越した事が無い」と思う地震ではあるが、今後先に行くほどエネルギーの蓄積が強まり、最大級に成る恐れが大いに有る。
東海巨大地震は、東南海、南海地震と連動して発生する可能性が高く有史以来五回発生しているが、そのうち四回はその直後から二年以内に巨大地震の南海地震も発生する事実で、東海、東南海、南海の巨大地震の発生メカニズムを歴史的に証明した。
尚、日本書紀に、「地震」とのみ記載された四百十六年の飛鳥期、「大和河内地震(遠飛鳥宮付近)」があるが、被害の記録はない。
これを「最古の地震の記録」と言えない事も無いが、記録と言えないほど簡単な記述である。
仁和地震後、臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ)が定省親王(さだみしんのう)に服して第五十六代天皇に即位し・宇多天皇(うだてんのう)となり、 藤原良房(ふじわらのよしふさ)が初の人臣関白に就いている。
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