後漢書・倭伝(東夷伝)
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
訳すと、後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜ふに印綬を以てす。
尚、この「光武帝賜ふ印綬」が、志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)ではないかとされている。
「會稽海外有東��人 分爲二十餘國」
訳すと、会稽(ホイチー/かいけい/中国・浙江省中部辺り)の海外に東��(とうてい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する。
会稽(かいけい/今の蘇州・上海辺り)郡の海の彼方に、二十余国に分かれて、「東��(とうてい)の人が居て、朝献していた」と言う記事である。
この「東��(とうてい)の人」が、中国・蘇州から東方を指していると解釈すれば、台湾島を指す事になり、北東を指すのであれば朝鮮半島から日本列島を指す事になる。
この文面から、前漢時代に蘇州・会稽(かいけい)の海の先に「東��(とうてい)の人の国」が二十余国在った事に成る。
この一文を持って、強引に「この東��(とうてい)の人が中国から日本を指していると解釈すれば」とする学者も居るが、「日本を指している」と言う解釈に足りる文面ではない。
つまりこの東��(とうてい)の二十余国が、朝鮮半島から日本列島に在った倭の国々の事ではないだろうか?
志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。
だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。
前出の中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた
後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。
と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。
つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。
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詳しくは、小論「広域倭の国論」を参照して下さい。
◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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