古代豪族・中原氏流と支流・樋口氏
しかし古代の豪族として中原氏流は、大和朝廷に「一定の勢力を築いて居た」と考えられる。
はじめ磯城津彦命(しきつひこのみこと)の子孫は、十市氏(といちうじ)の十市県主(といちあがたぬし)から十市首(といちのおびと)・十市宿禰(といちすくね)と名を替え九百七十一年(天禄二年)に十市有象・以忠が中原宿禰(なかはらすくね)姓に改め、九百七十四年(天延二年)に中原朝臣(なかはらのあそみ)姓を賜った事に始まった。
また、大和の国衆・十市氏が中原氏を称して居て、中原氏は十市県主(といちあがたぬし)に由来するとも言える。
古代豪族・中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記・少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。
また中原氏は、東市正(ひがしのいちのかみ)を世襲し京都の行政に深く携わっわって公家・押小路家を名乗った。
中原氏嫡流の押小路家は地下家筆頭の公家として存続し、明治時代には華族に列せられ、男爵となった。
平安末期、信濃国木曾地方に本拠を置く豪族で、「木曾中三」を名乗りとする中原兼遠(なかはらのかねとお)が木曾義仲(源義仲)の平家討伐の旗揚げに参加している。
千百五十五年(久寿二年)の大蔵合戦(源氏・秩父氏の同族間による争い)で源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸(義仲)を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育する。
兼遠(かねとお)の妻が木曾義仲(きそよしなか/源義仲)の乳母だった関係で平家から義仲を匿い育てた縁で娘の巴御前(ともえごぜん)を義仲の妾に付けて居る。
駒王丸(義仲)は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒令旨(りょうじ)に呼応する。治承・寿永の内乱に於いて平家を都から追い遣り、その後源頼朝の差し向けた源範頼(みなもとのりより)・源義経(みなもとのよしつね)等と戦う。
中世には中原親能(なかはらのちかよし)のように鎌倉幕府と関係を持つ者も現れた。
また、中原親能(なかはらのちかよし)の弟が鎌倉幕府・源頼朝の側近と成った中原広元(大江広元/おおえのひろもと)である。
親能(ちかよし)の養子となった中原師員(なかはらもろかず)の子孫は摂津氏を称し、鎌倉・室町の両幕府の実務面で活躍した。
樋口氏は平安時代末期に、中原兼遠の次男・中原兼光が信濃国筑摩郡樋口谷(または伊那郡樋口村)を領した事から、樋口兼光と名乗った事が発祥である。
兼光は弟・今井兼平らとともに木曾義仲の重臣として、後世に義仲四天王の一人に数えられるほどに活躍した。
時代が下り、戦国時代には中原兼遠(なかはらのかねとお)の子孫は越後国に移り、惣右衛門兼豊の代には上田長尾家の長尾政景、ついで長尾上杉家の上杉謙信のに仕えていた。
兼豊の長男・与六兼続は婿養子として越後の名族・直江家を継ぎ、上杉家の家老となり主君・上杉景勝の片腕として主を支え続け、戦国~安土桃山に活躍した上杉家・執政・直江兼続(なおえかねつぐ)を出している。
なお本家の家督は三男・与八秀兼が継ぎ、その子孫は江戸時代を通して米沢藩士として存続した。
江戸時代についての樋口氏は米沢藩の平侍約七十戸中にあり、藩内席次は第四十二位位、石高は二百五十石だった。
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