正親町天皇(おおぎまちてんのう)
鎌倉幕府成立以来、室町期、戦国期、安土桃山期と朝廷(皇室)は栄誉の授与(位階・官職)以外の権威は持たず、行政・司法に関与する実権は将軍または武門の最高実力者が握っていた。
そして何よりも、南北朝並立の混乱期義満の代に起こった北朝系・後小松天皇には「出生疑惑」が有り、実の父は当時並ぶもの無き権力者の将軍・義満と言う噂が立っていた。
先帝・御円融天皇は、将軍・義満に飾り者にされ、皇后・妃三人を次々犯されて反撃も出来ず、「世を儚(はかな)んで命を絶った」とされ、後小松天皇は将軍・義満の種で、「皇統は途絶えた」と言うとんでもない噂である。
そうした世間の噂に加え、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)謀殺事件・嘉吉の乱(かきつのらん)などで室町幕府はゆらぎを見せ、足利家の力が衰退して行くと伴に全国規模の大乱・応仁の乱から戦国期に到る。
この時代、朝廷お膝元の畿内に、京兆細川氏の被官・三好長慶(みよしちょうけい / みよしながよし)の右筆(ゆうひつ/秘書役の文官)から身を起こした松永久秀(まつながひさひで)が現れる。
松永久秀(まつながひさひで)は、北条早雲・斎藤道三と並ぶ下克上で出世を果たした男である。
足利将軍家、京兆細川家や三好三人衆に、畠山氏、六角氏がこの松永氏と同盟したり敵対したりで絡み合いながら、都を含む畿内は戦乱に明け暮れていた。
お膝元の洛域(都)では一時三好三人衆が勢力を持つ中、正親町天皇が即位した当時の天皇や公家達はすでに貧窮していた。
そうした背景の中、千五百六十八年(永禄十一年)に流浪の第十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を奉じ、正親町天皇をお護りすると言う大義名分により、戦国大名の織田信長が京都を制圧する。
信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させる。
その後の正親町天皇の退位に対する去就については、信長の譲位要求説と譲位反対説が在り、まだ論議が盛んである。
千五百七十七年(天正五年)、信長の最高位となる右大臣を宣下するも信長は本能寺に於いて明智光秀に攻められて自刃する。やがて、明智光秀を攻め滅ぼした羽柴秀吉が諸侯を統一して天下の実権を握り、正親町天皇を政権の後ろ楯として豊臣の姓を賜り、関白・太閤の位を得て天下に号令する。
正親町天皇は七十六歳まで生き、在位期間は二十九年、孫の和仁親王(かずひとしんのう/後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退し七年後に崩御する。
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皇統と鵺の影人
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