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松永氏(まつながうじ)と松永久秀(まつながひさひで)〔一〕

松永氏(まつながうじ)は祖先の武内宿禰(たけのうちのすくね)から十六世の孫・紀朝臣真済(きのあそみしんぜい)が若狭国司となり、同国遠敷郡松永荘より紀松永(きのまつなが)と称した事に始まるとされる。

これに拠ると松永氏(まつながうじ)は紀氏(きのうじ)の流れと言う事になるが、戦国大名の松永氏は藤原氏または源氏を自称している。

また、松永氏(まつながうじ)には大宰府の属員・大蔵氏系原田氏の末裔と言う説も在って、はっきりしない。

松永久秀(まつながひさひで)は、官位の弾正を合わせた松永弾正(まつながだんじょう)としても知られている。

久秀(ひさひで)が任じられた官位・弾正台(だんじょうだい)は、律令制下の八省の一つで監察・警察機構の長官である。

一般的に、「織田信長は気性が荒い」と解釈されていて、裏切った者は容赦しないように想われているが、その才を惜しんで裏切りを赦し再び臣下に加えようとした或いはした事例も数多い。

その最たる事例が、松永弾正(まつながだんじょう)こと松永久秀(まつながひさひで)の裏切りに対する信長の二度の対応だった。

信長は、恭順後一度目の久秀(ひさひで)の裏切りを赦し、二度目の裏切りも条件付で助命しようとしたが、久秀(ひさひで)が応じなかった。

松永久秀(まつながひさひで)の出身地は山城国とも播磨国とも言われ、父は不明ながら弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)が数えられる。

初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に第十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。

久秀(ひさひで)は、千五百四十年(天文九年)から細川氏の被官・三好長慶(みよしちょうけい / みよしながよし)の右筆(ゆうひつ/秘書役の文官)として仕える。

千五百四十九年(天文十八年)、主君・長慶(ながよし)が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると久秀(ひさひで)は長慶(ながよし)に従って上洛する。

久秀(ひさひで)は三好家の家宰となり、弾正忠に任官され、弾正忠の唐名である「霜台」を称し、長慶(ながよし)は後に自分の娘を久秀(ひさひで)に嫁がせている。

久秀(ひさひで)は、千五百五十一年(天文二十年)には、細川晴元方の三好政勝・香西元成らを攻めて打ち破るなど活躍を見せ、益々勢力を養っている。

その後、長慶(ながよし)に従い幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定した千五百五十三年(天文二十二年)に、久秀(ひさひで)は摂津滝山城主に任ぜられる。

久秀(ひさひで)は三好家の家宰として三好軍の主力を率いて波多野晴通を攻め、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝・香西元成の軍と再戦し、六角氏とも戦うなど活躍する。

千五百六十年(永禄三年)には、久秀(ひさひで)は長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・足利義輝から相伴衆に任じられ、従四位下・弾正少弼に叙位・任官し、翌年にはそれまで称していた藤原氏から源氏を称するようになる。

この頃、足利義輝から桐紋と塗輿の使用を許されたが、これは長慶親子と同等の待遇であり、既にこの時点で幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として久秀(ひさひで)は見られていた事が判る。

松永氏(まつながうじ)と松永久秀(まつながひさひで)〔二〕に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-11-02 01:01  

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