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松永氏(まつながうじ)と松永久秀(まつながひさひで)〔二〕

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松永久秀(まつながひさひで)は、千五百六十二年(永禄五年)には河内国の畠山氏・畠山高政を紀伊国へ追放、後北条氏(伊勢新九郎盛時)の出自と成った幕府政所執事の伊勢氏・伊勢貞孝・貞良父子を討伐している。

久秀(ひさひで)は、千五百六十三年(永禄六年)に家督を嫡男・久通に譲るも実質的に隠居した訳はなく、以後も前線で活躍する。

久秀(ひさひで)が勢力を増加させていく一方で、主君・長慶(ながよし)は、弟の十河一存(そごうかずまさ)、三好実休(義賢)、嫡男・義興の相次ぐ死去などの不幸が重なり、覇気を失くして行った。

この年(永禄六年)、長慶(ながよし)の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀(ひさひで)に並ぶ実力者は、阿波国で国主を補佐していた篠原長房のみとなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。

千五百六十四年(永禄七年)に長慶(ながよし)が死没すると、久秀(ひさひで)は暫くは三好三人衆らと共に幼君・三好義継を担いで三好家を支えた。

翌千五百六十五年(永禄八年)に成ると将軍・足利義輝が三好・松永の排除を狙った為これを攻め滅ぼした永禄の変が起こっている。

しかし三好三人衆との蜜月はそこまでで、千五百六十六年(永禄九年)には畿内の主導権をめぐり三好三人衆と対立するようになる。

更に三好康長や安宅信康らも三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、三好家中で孤立してしまう。

千五百六十七年(永禄十年)に成ると久秀(ひさひで)は、三人衆や筒井順慶の同盟軍に破れ、逃亡して数ヶ月行方不明と成るなど勢力を失って行く。

その逆境の中、三好家の当主である義継が三好三人衆の下から久秀(ひさひで)を頼って出奔して来た為、これを契機に勢力を盛り返して支配地を回復して再び三好方と対峙する。

千五百六十八年(永禄十一年)畿内の様相は一変する。

尾張を発祥とする戦国大名・織田信長が美濃をも手中にして太守となり、義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛して来たのである。

久秀(ひさひで)はいち早く信長に降伏し、人質と名茶器と言われる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示した。

この久秀(ひさひで)の恭順には足利義昭の反対が在ったものの、久秀の利用価値を認めた信長が義昭を説得し、幕府の直臣(義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた。

当時、大和国の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、久秀(ひさひで)は信長の思惑通りに次第にこれを攻略し、大和の平定を進めて行く。

千五百七十年(元亀元年)には信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされる。

この「金ヶ崎の戦い」に於いて久秀(ひさひで)は、近江朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。

またこの年、信長と三好三人衆の和睦交渉に当たり、久秀(ひさひで)の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。

所が久秀(ひさひで)は、建前幕府の直臣(義昭の家臣)だった為に天下の情勢を読み違える。

久秀(ひさひで)は石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されて行くに連れて将軍・足利義昭の誘いに応じて、信長包囲網の一角に加わってしまう。

千五百七十三年(元亀四年)に成ると、久秀(ひさひで)は正式に義昭と同盟し敵対していた三好康長・篠原長房らの阿波三好衆や本願寺とも結んだ。

所が、同じく将軍・義昭の依頼を受け反信長勢力が期待した甲斐国の武田信玄が上洛を伺わせる西上作戦の途上に病死してしまい、武田氏は撤兵する。

織田軍の反攻が開始され義昭が追放されて幕府が滅亡し、千五百七十三年(天正元年)には、義昭の妹婿となっていた三好義継が河内若江城で敗死する。

本来なら反逆した久秀(ひさひで)の運命も風前の灯だったが、居城・多聞山城を差し出す事で再び信長に降伏し、助命された。

千五百七十七年(天正五年)に上杉謙信毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから久秀(ひさひで)は勝手に離脱する。

久秀(ひさひで)は信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。

信長公記に拠れば、信長は松井友閑を派遣して久秀(ひさひで)に理由を問い質そうとしたが、「使者には会おうともしなかった」と言う。

信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させた所で再び手を差し伸べ、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずる。

しかし久秀(ひさひで)はこれを拒絶した為、信長の下に差し出していた二人の孫は京都六条河原で処刑され、総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り、久秀(ひさひで)は爆死した。

松永久秀(まつながひさひで)は、北条早雲斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、連歌や茶道に長けた教養人であり、信貴山城近郊の人々からは領国に善政を敷いた名君として現在でも知られている。

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by mmcjiyodan | 2011-11-02 01:04  

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