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義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)

後醍醐天皇の第七皇子、義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)の母は、阿野公廉(あのきみかど/藤原)の子女・阿野廉子(あのかどこ)である。

千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)、後醍醐天皇の主導に拠る元弘の乱(げんこうのらん)が成功して鎌倉幕府が滅亡し、父・後醍醐天皇が建武の新政を始める。

五歳と幼い皇子・義良(のりなが)は、北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。

千三百三十四年(建武元年)、皇子・義良(のりなが)は多賀城に於いて親王となるも、翌千三百三十五年(建武二年)足利尊氏が新政から離反した為、北畠親子と伴に尊氏討伐へ京に引き返す。

千三百三十六年(建武三年)、九歳の義良親王(のりながしんのう)は行在所比叡山に於いて元服を行い、同時に三品陸奥太守(さんぴんむつたいしゅ)に叙任され、尊氏が京で宮方に敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。

千三百三十七年(延元二年/建武四年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、その後夏に成って再度上洛を始める。

義良親王(のりながしんのう)は同年冬に鎌倉を攻略し、翌千三百三十八年(延元三年/暦応元年)さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父・後醍醐天皇が居る大和の吉野行宮に入った。

父・後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集する為に各地に自らの皇子を派遣する中、義良親王(のりながしんのう)も宗良親王(むねながしんのう)と伴に北畠親房・顕信に奉ぜられて伊勢国大湊から船団を率いて三度目の奥州平定を目指す。

しかし義良親王(のりながしんのう)一行は途中暴風に遭って船団は離散し、義良親王(のりながしんのう)の船は伊勢に漂着する。

翌千三百三十九年(延元四年/暦応に年)、義良親王(のりながしんのう)は吉野へ戻り、間もなく皇太子と成る。

同年父・後醍醐天皇の譲位を受けて践祚(せんそ)し、南朝の第二代天皇・後村上天皇(ごむらかみてんのう)を名乗り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。

この後、村上天皇(ごむらかみてんのう)は、遥か五百七十年ほど後の千九百十一年(明治四十四年)、明治政府から南朝が正統とされた為、歴代天皇として認定されるようになった。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-11-28 14:31  

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