尾張徳川家(おわりとくがわけ)
尾張藩主の家系で、単に「尾張家」・「尾州家」とも言い、紀州徳川家・水戸徳川家と並ぶ徳川御三家中の筆頭格にして諸大名の中でも最高の家格を有した。
始祖と成った家康の九男・徳川義直は、まだ五郎太を名乗る千六百三年(慶長八年)、三歳の時に家康から甲斐国(二十五万石)を拝領し甲府藩主と成る。
五郎太は甲府藩主に封じられたが、幼少の為に甲斐統治は以前から着任していた甲府城代・平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず家康と伴に駿府城に在城していた。
千六百六年(慶長十一年)に五郎太は六歳で元服し、徳川義直を名乗る。
翌千六百七年(慶長十二年)に、尾張国清洲を領していた兄・松平忠吉(家康の四男)が関ヶ原の戦いの折に負傷した傷が元で江戸で死去、家康は義直を尾張に据える決断をする。
義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清洲(五十二万石)に就封されると家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。
尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがない時は他の御三家とともに後嗣を出す資格を有して居た。
しかし、七代将軍・徳川家継没後、徳川継友と将軍後継を争った末、紀州徳川家出身の徳川吉宗が八代将軍に就任してしまう。
その後には御三卿が創設されて以後吉宗の血統が跡継ぎの主流と成った影響も在って、結局、尾張家からは将軍を出せなかった。
また、虚弱精子劣性遺伝の影響からか短命の藩主が多く、千七百九十九年に尾張德川家、その翌々年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶して以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返す事になる。
尾張徳川家は、藩祖・徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えて来た勤皇家だった。
一度も将軍を輩出できなかった事、十一代から十四代まで養子を押し付けられ続けた事、勤皇家だった事などにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、尾張徳川家は戊辰戦争で官軍方に付いている。
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皇統と鵺の影人
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