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高橋是清(たかはしこれきよ)

日本の伝説的な近代金融政策の神様が、高橋是清(たかはしこれきよ)である。

明治維新頃の日本の政治家・高橋是清(たかはしこれきよ)は、千八百五十四年、幕府御用絵師・川村庄右衛門と奉公娘・きんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。

きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎と言う人で、家は豊かであったが、三治郎が妻と離別していた為、きんは中門前町のおばの所へ預けられ行儀見習いの為に川村家へ奉公に出された。

つまり四十七歳にも成る川村庄右衛門が、十六歳の奉公娘・きんに手を出し身重にさせてしまった。

庄右衛門の妻は、身重に成ったきんに同情し、こっそり中門前町・きんのおばの家へ帰して静養させ、時々見舞って世話をした 。

きんの男児は和喜次と名付けられ、庄右衛門は和喜次を息子として認知した。

しかし川村家は既に六人の子持ちの為に、和喜次は里子に出される事になり、生後三~四日にして仙台藩の足軽武士・高橋覚治是忠の家に預けられる事と成った。

その後和喜次=是清(これきよ)は、二歳まで里子に出された川村家で義理の祖母の喜代子(きよこ)に大変かわいがられて育つも、某菓子屋に養子に出される寸前で喜代子(きよこ)に実子として届けられ、正式に高橋覚治是忠の養子に成る。

是清(これきよ)の名も、養父・高橋是忠の一字を貰って名乗ったものである。

その後、藩足軽武士・是清(これきよ)は仙台藩の藩命により、十一歳で横浜の米国人医師・ヘボンの私塾(現・明治学院)にて学ぶ。

ヘボンの私塾で二年間英語を学んだ是清(これきよ)は、千八百六十七年(慶応三年)に藩命により、幕臣・勝海舟の息子・小鹿(ころく)と伴に米国へ留学した。

しかし留学の最初の段階で、横浜に滞在していた米国人の貿易商・ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服される。

更にホームステイ先と決めていた貿易商・ユージン・ヴァン・リードの両親に騙されて年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に三年間の奴隷労働をすると言う内容で売られる。

ブラウン家では、牧童としてや葡萄園の作業で奴隷同然の生活を強いられ、その先は幾つかの家を転々と渡り、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。

契約上その境遇から抜けられない事を悟った是清(これきよ)は、一年後にサンフランシスコ名誉領事嘱託・ブルークスに泣きついて交渉させ自由を得て帰国の途に着く。

千八百六十八年(明治元年)、高橋是清(たかはしこれきよ)は帰国する。

帰国五年後の千八百七十三年(明治六年)、是清(これきよ)はサンフランシスコで知遇を得た初代文部大臣・森有礼(もりありのり)に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。

合わせて英語の教師も熟(こ)なし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、その内廃校寸前に在った共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。

共立学校の教え子には、俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之(あきやまさねゆき)がいる。

その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍する。千八百八十四年(明治十七年)、是清(これきよ)三十歳の時には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

そこに上手い話が舞い込み、千八百八十九年、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでにその鉱山が廃坑の為失敗の憂き目に遭う。

三年後の千八百九十二年(明治二十五年)に是清(これきよ)は再び帰国した後に、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行する。

千九百四年~五年の日露戦争当時、五十歳・日銀副総裁と成っていた是清(これきよ)は戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かう。

だが、投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念等、多くの困難があった。

是清(これきよ)はこの懸念払拭に努め、交渉の結果、ジェイコブ・シフやロンドン留学時代の人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し戦費調達の成果を挙げた。

日露戦争終結直後の千九百五年(明治三十八年)、是清(これきよ)は貴族院議員に勅選され、六年後千九百十一年(明治四十四年年)に日銀総裁となる。

千九百十三年(大正二年)、是清(これきよ)は第一次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。

是清(これきよ)は政友会の原敬(はらたかし)が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第二十代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第四代総裁となった。

しかしこの総理大臣就任は、是清(これきよ)自身が思わぬ総裁就任だった為、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直す事はできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾(きようらけいご)の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。

これに対し是清(これきよ)率いる政友会は、憲政会及び革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。

これにより護憲三派は、清浦内閣打倒に成功する。

清浦内閣打倒に成功し、新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明(かとうたかあき)は、是清(これきよ)を農商務相に任じる。

その後、加藤内閣は政友会との連立を解いて憲政会単独となった為、是清(これきよ)は政友会総裁を田中義一(たなかぎいち)に譲り政界を引退する。

所が、千九百二十七年(昭和二年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第一次若槻内閣に代わって田中組閣した田中義一(たなかぎいち)に請われ自身三度目の蔵相に就任する。

是清(これきよ)は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の二百円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌の沈静化に成功する。

金融恐慌から四年後、千九百三十一年(昭和六年)、政友会総裁・犬養毅(いぬかいつよし)が組閣した際も、是清(これきよ)は犬養に請われ四度目の蔵相に就任する。

蔵相に就任した是清(これきよ)は、「リフレーション政策」と呼ばれる金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

又、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件五・一五事件で犬養首相が暗殺された際には、是清(これきよ)が総理大臣を臨時兼任している。

続いて親友である斎藤実(さいとうみのる)が組閣した際も、是清(これきよ)は五度目の蔵相を留任している。

また千九百三十四年(昭和九年)に、共立学校での教え子にあたる海軍大将・岡田啓介(おかだけいすけ)首班の内閣に、是清(これきよ)は六度目の大蔵大臣に就任する。

岡田内閣では、伴に滞米経験がある高橋是清(大蔵大臣)と斎藤実(内大臣)は、個人的に親しい友人でもあった。

当時、「リフレーション政策」はほぼ初期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見された。

この為、予見されたインフレーションを抑えるべく軍事予算の縮小を図った所、岡田内閣は軍部の恨みを買う。

千九百三十六年(昭和十一年)二・二六事件に於いて是清(これきよ)は赤坂の自宅二階で中橋基明中尉以下の青年将校らに襲撃され暗殺された。

是清(これきよ)の友人・予備役海軍大将・斎藤実内大臣もまた、この二・二六事件で坂井直中尉以下の襲撃部隊に暗殺された。

しかしこの帝都を揺るがす暗殺事件は、時の帝・昭和天皇の勘気を蒙り鎮圧される。

高橋是清(たかはしこれきよ)は、総理大臣経験者ながら総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い稀有な存在だった。

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by mmcjiyodan | 2011-12-17 14:06  

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