大覚寺統(だいかくじとう/鎌倉後期~南北朝並立時代の分裂皇統)
皇統・大覚寺統(南朝)は、第八十八代・後嵯峨天皇の子である第九十代・亀山天皇の子孫である。
亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨に在った大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの大覚寺統の名称が付けられた。
院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御した為に、後深草と亀山の間で対立が起る。
この対立を、鎌倉幕府は両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定する。
後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王(後醍醐帝)に皇位を継がせようとする。
だが、尊治親王が後醍醐天皇として即位すると、後醍醐天皇はこの妥協案に従わず皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。
これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策、元弘の乱(げんこうのらん)を起こした為、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。
鎌倉幕府の推挙により、第九十六代天皇に三十一歳と若くてやり手の皇子で野心も在った大覚寺統(だいかくじとう)・後醍醐天皇が即位すると、天皇親政を目指して鎌倉幕府の倒幕を目論む。
対抗する持明院統(北朝)や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せる。
所が、千三百三十三年に鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政が成ると後醍醐天皇復位によって持明院統・木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。
建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(南朝・後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、新体制施行二年半にして足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵、建武の新政体制は崩壊する。
吉野に逃れた大覚寺統の南朝天皇(後醍醐天皇系)と、足利尊氏に擁立された持明院統の北朝天皇(光厳天皇系)の対立時代=南北朝時代となる。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際、持明院統(北朝)は京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、その後大覚寺統(南朝)が巻き返して半年で崩壊する。
後に室町幕府・三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が「南北朝合一」を受諾する。
後亀山天皇(南朝)が三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)を持明院統(北朝)の後小松天皇に引き渡して「南北朝合一」とし、南北朝の分裂は終わり皇統は持明院統に統一される事となった。
しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というもので在った。
そして以後の皇位が持明院統だけで継承された為、大覚寺統の子孫は不満を抱き、再び南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を十五世紀半ばまで「後南朝」として続けた。
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