厳島神社(いつくしまじんじゃ)・宮島(みやじま)
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、式内社(名神大社)・安芸国一宮で、旧社格は官幣中社、現在は神社本庁の別表神社に指定されていて「平家納経(平安時代に平家一門がその繁栄を願い、厳島神社に奉納した経典類の総称。)」でも有名である。
厳島神社のある厳島(宮島)は「日本三景」の一となっていて、高さ十六メートルの大鳥居(重要文化財)も春日大社(奈良県)と気比神宮(福井県)の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一とされ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。
厳島神社の平舞台は、四天王寺(大阪市天王寺区)の石舞台、住吉大社(大阪市住吉区)の石舞台と共に「日本三舞台」の一である。
祭神は、朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)である。
三柱(みはしら)の女神「宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)」は、大和朝廷によって古くから重視され祀られていた。
その厳島神社(いつくしまじんじゃ)三柱の女神の一神・市杵島姫命は神仏習合時代に弁才天と習合し大願寺として、大願寺は・江島神社(神奈川県江の島)・都久夫須麻神社(滋賀県竹生島)と共に「日本三弁天の一」ともされている。
厳島神社のある宮島は、古代より島そのものが神として信仰の対象とされて来たとされている。
五百九十三年(推古天皇元年)、土地の有力豪族で在った佐伯氏・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まると伝わる。
文献での初出は八百十一年(弘仁二年)で、「延喜式神名帳」では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載され、名神大社に列している。
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、平安時代末期に平家一族の崇敬を受け、千百六十八年(仁安三年)頃に平清盛が社殿を造営したが、千二百七年(建永二年)と千二百二十三年(貞応二年)の二度の火災で全てを焼失した。
厳島神社は平家の守り神で、平家一門の隆盛とともに当社も盛え、平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けた。
現在残る神社の社殿は、千二百四十年~千二百四十三年の仁治年間(鎌倉幕府・北条執権(得宗家)時代)以降に造営されたものである。
戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢が徐々に衰退するが、毛利元就が千五百五十五年(弘治元年)の「厳島の戦い」で勝利を収め、厳島を含む一帯を支配下に置き、元就が当社を崇敬するようになってから再び隆盛した。
中国地方の覇者となった毛利元就は大掛かりな社殿修復を行い、また日本全国を制覇した豊臣秀吉も九州遠征の途上で当社に参拝し、大経堂を建立している。
江戸時代には、庶民の娯楽の一つとして厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。
明治維新が落ち着いた千八百七十一年(明治四年)に厳島神社は国幣中社に列格し、千九百十一年(明治四十四年)に官幣中社に昇格した。
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皇統と鵺の影人
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