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修禅寺(しゅぜんじ)・修善寺(しゅぜんじ)

修禅寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で山号を福地山とする為、正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」である。

その修禅寺(しゅぜんじ)の寺領の地を、修善寺(注・寺の方はゼンの字が禅の修禅寺が正)と呼び、現在の住所は静岡県伊豆市修善寺である。

現在は曹洞宗の寺院・修禅寺(しゅぜんじ)であるが、開山したのは真言宗・空海(弘法大師)で、当時は地名が桂谷と呼ばれていた処から、真言宗の桂谷山寺と言われる格式の高い寺だった。

そしてこの修善寺には、空海(弘法大師)が開いたと伝えられる独鈷の湯(とっこのゆ)が、現在でも有名な温泉地として栄えている。

真言宗・桂谷山寺(けいこくさんじ/修善寺)は、「延喜式」に於いて、「伊豆国禅院一千束と記された」としている。

空海(弘法大師)に拠る桂谷山寺(けいこくさんじ/修禅寺)の開山は、中国から帰国して高野山に金剛峰寺を開山して僅か一年と経たない事業だった。

何故、空海(弘法大師)が高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を開山した直後に、伊豆半島中心の地「桂谷」に桂谷山寺の開基を急いだのか?

その伊豆の地が、「田京」と言う謎の都を有する日本史上特別の重要な土地だったからである。

その後、源頼朝が鎌倉の地に幕府を開府した鎌倉時代初期に、有力御家人を排出した事から修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。

また、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府二代将軍・源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害された地としても知られている。

千二百四十九年~千二百五十五年の建長年間に、大陸元帝国の密偵と疑われていた南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が避難の為に修禅寺に来住し、それに伴って一時「臨済宗」に改宗された。

その後、千三百六十一年(康安元年)の畠山国清(伊豆国守護大名)と足利基氏(鎌倉公方の祖)の戦乱の被害を受け、更に千四百九年(応永九年)の大火災で伽藍が全焼し、荒廃した。

その後、伊豆一国を収めた伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、彼の叔父の隆渓繁紹に曹洞宗の寺院として再興させ、以後曹洞宗の寺と成って今日に到る。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2012-04-04 01:57  

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