前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)〔一〕
前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)は戦国時代の武将で、近年彼を主人公にした著作や漫画の主人公に使われて有名に成る。
この前田慶次郎(まえだけいじろう)伝説も、宮本武蔵伝説と同様に創作部分が多く、信憑性に欠けるが、娯楽性を加味した「格好が良い傾き者(かぶきもの)伝承」がドンドンと膨らんでいる。
但し現実の前田慶次郎(まえだけいじろう)は、周囲を小馬鹿にするような破天荒な行動の伝承が目立つばかりの武将で、武門として歴史に影響を与えるほどの成果はない。
それでも、格別に信頼が置ける前田慶次郎(まえだけいじろう)の資料が無いまま、名声が上がって行く傾向は、ヒーロー伝説が好きな庶民のささやかな娯楽の対象である。
言ってみれば、宮本武蔵は、自伝自称型英雄であり、前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)は作家創造型の娯楽英雄と言える。
前田慶次郎(まえだけいじろう)の実父は織田信長の重臣・滝川一益の一族とされるが、比定される人物は一族の中で諸説有り未確定である。
滝川一益は、近江国甲賀郡の国人の出自と言われていて、信長の乳兄弟・池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。
慶次郎利益(けいじろう・とします)は荒子・前田家の長子・利久の養子となり、本来なら前田家の当主に納まる筈だった。
慶次郎利益が養子に入った前田家は、実家・滝川家同様に織田信長の尾張織田家に仕えて居た。
千五百六十年(永禄三年)、前田家当主・利春が死去し前田家の家督は長子・利久が継いで居た。
所が千五百六十九年(永禄十二年)に、突如、お館様(主君)・信長から利春の四男・前田利家が兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。
養父・利久(荒子城主)が病弱で、「戦奉公に御無沙汰」の状態に在った事が理由と成り、前田家当主の座を四男・前田利家に譲らされてしまう。
後に加賀百万石の藩祖となった前田利家は荒子城主・前田利春の四男で在ったが、織田信長に近習(小姓)として仕え頭角を現し、信長の衆道相手としても可愛がられた。
この頃から前田利家は、近習(小姓)旗本・赤母衣衆として信長の本隊として従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられる。
この為、慶次郎利益(けいじろう・とします)は養父に従って荒子城から退去したとされるも、養父・利久はその後も利家とともに織田家に仕えた。
千五百八十一年(天正九年)頃、大きく支配地を広げる織田信長の元で累進し能登国一国(二十三万石)を領する大名となった前田利家を頼り仕える事になる。
前田利家から甥に当たる利久に二千石、その養子・慶次郎利益(けいじろう・とします)には五千石を与えられている。
【前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)〔ニ〕】に続く。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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